2013.02.28(Thu)
ドン・カルロは二週間でブラジルへ帰らなければならなかったが、マヌエラは観光ビザの期限いっぱいまで日本を旅行して廻る予定でいた。
俊一は出来るだけ機会を作り、二人を北海道の観光地巡りに連れ出した。
阿寒、知床などの道東方面から、大雪山系、洞爺湖へ足を伸ばし、小樽そして再び札幌に寄って買い物なども楽しんだ。
レジーヌはすっかりマヌエラに懐き、春休みの間じゅうずっと行動を共にした。
レジーヌはマヌエラの事を「マヌさん」と呼び、マヌエラはレジーヌをいつものニックネームの「レジ」と呼ぶようになっていた。
マヌエラとドン・カルロには別々の客室をあてがったが、レジーヌは自分の部屋を出て、マヌエラの寝室に行き一緒に寝るまでになった。夜遅くまで、マヌエラの部屋からは彼女らの笑い声が聞こえていた。
札幌での買い物は女性組、男性組に分かれて待ち合わせ時間を決め、俊一はドン・カルロをすすきの近くのたぬき小路に連れて行った。昼近くになって二人でラーメン屋に入った時、運ばれてくる味噌ラーメンを待っている間、俊一はドン・カルロに訊ねた。
「ドン・カルロ。キートスに僕がお二人を迎えに行った時、貴方は僕の事を『罪な男』と仰いましたよね。あの言葉の意味がいまだに解らないでいるのです」
ドン・カルロは出されたおしぼりで顔を拭きながら、俊一を見つめた。
「シュンよ、まだ気が付かないのかね。お前さんは本当に女心というのに疎い男なんじゃのう。マヌエラが日本語を専攻するようになったのはただひとえにお前さんに再会したいがためだったんじゃよ」
「え?」
「わしはあの後も彼女の父親のあの族長から何度か相談を受けたんじゃ。娘がどうしても俊一を忘れられないでいると。その都度わしは諦めた方が彼女のためだと忠告したんじゃが、彼女は諦めきれなかったらしい。彼女が十七歳になってサンパウロの大学受験のための検定を受けた時、彼女は一発で合格したんじゃ。あのカウアニ族の村には学校などなかったんじゃが、彼女は父親が取り寄せた本を読み漁って独学で高学力を身に着けた。ブラジルの国立大学は学費はすべて無料だが、入るのはなかなか難しい。しかしマヌエラはそれもクリアして国立のサンパウロ大学に入学したのさ。すべてがシュン、お前にもう一度会いたいがためだったんじゃ。お前さんに会うには世界に出られるだけの学力と相応しさを身に付けたいと必死だったのさ。わしは時々サンパウロで彼女と会ったが、お前さんがあのフランスの財閥令嬢の夫になっていたことを知った時の彼女ときたら、今でも涙が出るくらい不憫じゃった」
「え? 何故マヌエラはフランソワと僕の事を?」
「シュン、フランスと日本しか行き来していなかったお前さんには解らないことだったろうが、今は亡きお前さんの奥さんは、ブラジルでも有名人じゃった」
「・・・」
「彼女の事はいつも週刊誌に載っておったよ。大勢のブラジル女性、特に若い女の子たちはフランソワ・ル・カンフに憧れを持っておった。そんな女性が父親が誰か解らない子供を身ごもった事もスキャンダルとしてブラジルでも報道された。その時、一部の新聞が、シュン、お前さんの名前を載せたんじゃ。フランソワ・ル・カンフの相手として一番可能性が高い男性としてな」
「何故私の事が解ったのでしょう」
「パパラッチを見くびっておったな?シュン。 奴らはフランソワさんをずっと尾行していたんじゃ。パリの空港で別れのキスをするサングラス姿のフランソワさんとお前さんの写真がばっちりと新聞に載っておったのをわしも見たよ」
「・・・そうだったんですか・・・」
「ああ、それをマヌエラが見た時のショックはお前さんでも想像がつくじゃろう?」
「・・・・」
「結局ああして不幸な結末になってしまったが、わしもマヌエラも、生まれた子供がどうなったのかはつかめなかった。わしらはお前さんは日本に残り、子供はパリのル・カンフ家で育てられているものだと思っておった。だからキートスでレジーヌちゃんと会った時には正直言って驚いたよ。マヌエラはポルトガル語でわしに囁いたんじゃ。『子供をひきとったのね』ってな」
ドン・カルロの話を聞いて俊一は初めて納得した事があった。
千歳から美沢について俊一の自宅に入った時、居間に飾ってあるフランソワの写真をマヌエラがじっと見つめていた事。そしてその後何も言葉を発せず、傍にたたずんでいたレジーヌを優しい笑顔で見つめ、抱きしめた事であった。
「しかしな、シュン」
ドン・カルロが言葉を付け加えた。
「彼女には下心も何もないのじゃよ。今回の日本政府からの招待は本当に幸運な事でのう。わしは古くからカルレ村の農業の発展に尽くしたという功績でブラジル政府がわしを代表団の一人に選び、マヌエラはサンパウロ大学を出た時の日本に関する論文が評価を得たがために来ることができた。日本に行くのならば、ずっと会いたかったお前さんに一度だけでも会いたいと、今勤務している日本語学校から三か月の休暇をもらったんじゃ。一度だけ会って、シュン、お前さんが日本で幸せに暮らしている事を確認したら、自分もブラジルに帰り、いずれはカウアニの村に戻って学校を作りたいと言っておる」
俊一はただ驚き、何も言葉を出せないでいた。
(つづく)
俊一は出来るだけ機会を作り、二人を北海道の観光地巡りに連れ出した。
阿寒、知床などの道東方面から、大雪山系、洞爺湖へ足を伸ばし、小樽そして再び札幌に寄って買い物なども楽しんだ。
レジーヌはすっかりマヌエラに懐き、春休みの間じゅうずっと行動を共にした。
レジーヌはマヌエラの事を「マヌさん」と呼び、マヌエラはレジーヌをいつものニックネームの「レジ」と呼ぶようになっていた。
マヌエラとドン・カルロには別々の客室をあてがったが、レジーヌは自分の部屋を出て、マヌエラの寝室に行き一緒に寝るまでになった。夜遅くまで、マヌエラの部屋からは彼女らの笑い声が聞こえていた。
札幌での買い物は女性組、男性組に分かれて待ち合わせ時間を決め、俊一はドン・カルロをすすきの近くのたぬき小路に連れて行った。昼近くになって二人でラーメン屋に入った時、運ばれてくる味噌ラーメンを待っている間、俊一はドン・カルロに訊ねた。
「ドン・カルロ。キートスに僕がお二人を迎えに行った時、貴方は僕の事を『罪な男』と仰いましたよね。あの言葉の意味がいまだに解らないでいるのです」
ドン・カルロは出されたおしぼりで顔を拭きながら、俊一を見つめた。
「シュンよ、まだ気が付かないのかね。お前さんは本当に女心というのに疎い男なんじゃのう。マヌエラが日本語を専攻するようになったのはただひとえにお前さんに再会したいがためだったんじゃよ」
「え?」
「わしはあの後も彼女の父親のあの族長から何度か相談を受けたんじゃ。娘がどうしても俊一を忘れられないでいると。その都度わしは諦めた方が彼女のためだと忠告したんじゃが、彼女は諦めきれなかったらしい。彼女が十七歳になってサンパウロの大学受験のための検定を受けた時、彼女は一発で合格したんじゃ。あのカウアニ族の村には学校などなかったんじゃが、彼女は父親が取り寄せた本を読み漁って独学で高学力を身に着けた。ブラジルの国立大学は学費はすべて無料だが、入るのはなかなか難しい。しかしマヌエラはそれもクリアして国立のサンパウロ大学に入学したのさ。すべてがシュン、お前にもう一度会いたいがためだったんじゃ。お前さんに会うには世界に出られるだけの学力と相応しさを身に付けたいと必死だったのさ。わしは時々サンパウロで彼女と会ったが、お前さんがあのフランスの財閥令嬢の夫になっていたことを知った時の彼女ときたら、今でも涙が出るくらい不憫じゃった」
「え? 何故マヌエラはフランソワと僕の事を?」
「シュン、フランスと日本しか行き来していなかったお前さんには解らないことだったろうが、今は亡きお前さんの奥さんは、ブラジルでも有名人じゃった」
「・・・」
「彼女の事はいつも週刊誌に載っておったよ。大勢のブラジル女性、特に若い女の子たちはフランソワ・ル・カンフに憧れを持っておった。そんな女性が父親が誰か解らない子供を身ごもった事もスキャンダルとしてブラジルでも報道された。その時、一部の新聞が、シュン、お前さんの名前を載せたんじゃ。フランソワ・ル・カンフの相手として一番可能性が高い男性としてな」
「何故私の事が解ったのでしょう」
「パパラッチを見くびっておったな?シュン。 奴らはフランソワさんをずっと尾行していたんじゃ。パリの空港で別れのキスをするサングラス姿のフランソワさんとお前さんの写真がばっちりと新聞に載っておったのをわしも見たよ」
「・・・そうだったんですか・・・」
「ああ、それをマヌエラが見た時のショックはお前さんでも想像がつくじゃろう?」
「・・・・」
「結局ああして不幸な結末になってしまったが、わしもマヌエラも、生まれた子供がどうなったのかはつかめなかった。わしらはお前さんは日本に残り、子供はパリのル・カンフ家で育てられているものだと思っておった。だからキートスでレジーヌちゃんと会った時には正直言って驚いたよ。マヌエラはポルトガル語でわしに囁いたんじゃ。『子供をひきとったのね』ってな」
ドン・カルロの話を聞いて俊一は初めて納得した事があった。
千歳から美沢について俊一の自宅に入った時、居間に飾ってあるフランソワの写真をマヌエラがじっと見つめていた事。そしてその後何も言葉を発せず、傍にたたずんでいたレジーヌを優しい笑顔で見つめ、抱きしめた事であった。
「しかしな、シュン」
ドン・カルロが言葉を付け加えた。
「彼女には下心も何もないのじゃよ。今回の日本政府からの招待は本当に幸運な事でのう。わしは古くからカルレ村の農業の発展に尽くしたという功績でブラジル政府がわしを代表団の一人に選び、マヌエラはサンパウロ大学を出た時の日本に関する論文が評価を得たがために来ることができた。日本に行くのならば、ずっと会いたかったお前さんに一度だけでも会いたいと、今勤務している日本語学校から三か月の休暇をもらったんじゃ。一度だけ会って、シュン、お前さんが日本で幸せに暮らしている事を確認したら、自分もブラジルに帰り、いずれはカウアニの村に戻って学校を作りたいと言っておる」
俊一はただ驚き、何も言葉を出せないでいた。
(つづく)
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