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<連載小説>楡の震え 94

ドン・カルロは二週間でブラジルへ帰らなければならなかったが、マヌエラは観光ビザの期限いっぱいまで日本を旅行して廻る予定でいた。

俊一は出来るだけ機会を作り、二人を北海道の観光地巡りに連れ出した。
阿寒、知床などの道東方面から、大雪山系、洞爺湖へ足を伸ばし、小樽そして再び札幌に寄って買い物なども楽しんだ。

レジーヌはすっかりマヌエラに懐き、春休みの間じゅうずっと行動を共にした。
レジーヌはマヌエラの事を「マヌさん」と呼び、マヌエラはレジーヌをいつものニックネームの「レジ」と呼ぶようになっていた。

マヌエラとドン・カルロには別々の客室をあてがったが、レジーヌは自分の部屋を出て、マヌエラの寝室に行き一緒に寝るまでになった。夜遅くまで、マヌエラの部屋からは彼女らの笑い声が聞こえていた。

札幌での買い物は女性組、男性組に分かれて待ち合わせ時間を決め、俊一はドン・カルロをすすきの近くのたぬき小路に連れて行った。昼近くになって二人でラーメン屋に入った時、運ばれてくる味噌ラーメンを待っている間、俊一はドン・カルロに訊ねた。

「ドン・カルロ。キートスに僕がお二人を迎えに行った時、貴方は僕の事を『罪な男』と仰いましたよね。あの言葉の意味がいまだに解らないでいるのです」

ドン・カルロは出されたおしぼりで顔を拭きながら、俊一を見つめた。

「シュンよ、まだ気が付かないのかね。お前さんは本当に女心というのに疎い男なんじゃのう。マヌエラが日本語を専攻するようになったのはただひとえにお前さんに再会したいがためだったんじゃよ」

「え?」

「わしはあの後も彼女の父親のあの族長から何度か相談を受けたんじゃ。娘がどうしても俊一を忘れられないでいると。その都度わしは諦めた方が彼女のためだと忠告したんじゃが、彼女は諦めきれなかったらしい。彼女が十七歳になってサンパウロの大学受験のための検定を受けた時、彼女は一発で合格したんじゃ。あのカウアニ族の村には学校などなかったんじゃが、彼女は父親が取り寄せた本を読み漁って独学で高学力を身に着けた。ブラジルの国立大学は学費はすべて無料だが、入るのはなかなか難しい。しかしマヌエラはそれもクリアして国立のサンパウロ大学に入学したのさ。すべてがシュン、お前にもう一度会いたいがためだったんじゃ。お前さんに会うには世界に出られるだけの学力と相応しさを身に付けたいと必死だったのさ。わしは時々サンパウロで彼女と会ったが、お前さんがあのフランスの財閥令嬢の夫になっていたことを知った時の彼女ときたら、今でも涙が出るくらい不憫じゃった」

「え? 何故マヌエラはフランソワと僕の事を?」

「シュン、フランスと日本しか行き来していなかったお前さんには解らないことだったろうが、今は亡きお前さんの奥さんは、ブラジルでも有名人じゃった」

「・・・」

「彼女の事はいつも週刊誌に載っておったよ。大勢のブラジル女性、特に若い女の子たちはフランソワ・ル・カンフに憧れを持っておった。そんな女性が父親が誰か解らない子供を身ごもった事もスキャンダルとしてブラジルでも報道された。その時、一部の新聞が、シュン、お前さんの名前を載せたんじゃ。フランソワ・ル・カンフの相手として一番可能性が高い男性としてな」

「何故私の事が解ったのでしょう」

「パパラッチを見くびっておったな?シュン。 奴らはフランソワさんをずっと尾行していたんじゃ。パリの空港で別れのキスをするサングラス姿のフランソワさんとお前さんの写真がばっちりと新聞に載っておったのをわしも見たよ」

「・・・そうだったんですか・・・」

「ああ、それをマヌエラが見た時のショックはお前さんでも想像がつくじゃろう?」

「・・・・」

「結局ああして不幸な結末になってしまったが、わしもマヌエラも、生まれた子供がどうなったのかはつかめなかった。わしらはお前さんは日本に残り、子供はパリのル・カンフ家で育てられているものだと思っておった。だからキートスでレジーヌちゃんと会った時には正直言って驚いたよ。マヌエラはポルトガル語でわしに囁いたんじゃ。『子供をひきとったのね』ってな」

ドン・カルロの話を聞いて俊一は初めて納得した事があった。

千歳から美沢について俊一の自宅に入った時、居間に飾ってあるフランソワの写真をマヌエラがじっと見つめていた事。そしてその後何も言葉を発せず、傍にたたずんでいたレジーヌを優しい笑顔で見つめ、抱きしめた事であった。

「しかしな、シュン」

ドン・カルロが言葉を付け加えた。

「彼女には下心も何もないのじゃよ。今回の日本政府からの招待は本当に幸運な事でのう。わしは古くからカルレ村の農業の発展に尽くしたという功績でブラジル政府がわしを代表団の一人に選び、マヌエラはサンパウロ大学を出た時の日本に関する論文が評価を得たがために来ることができた。日本に行くのならば、ずっと会いたかったお前さんに一度だけでも会いたいと、今勤務している日本語学校から三か月の休暇をもらったんじゃ。一度だけ会って、シュン、お前さんが日本で幸せに暮らしている事を確認したら、自分もブラジルに帰り、いずれはカウアニの村に戻って学校を作りたいと言っておる」

俊一はただ驚き、何も言葉を出せないでいた。


(つづく)

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<連載小説>楡の震え 93

「東京から参りましたANA1066便はただいま到着いたしました」

新千歳空港のアライバルロビーに静かなアナウンスが流れた。

「パパの大事なお客さんを千歳まで迎えに行く」と告げた時、春休みで退屈そうだったレジーヌは目を輝かせて「私も行く!」と言った。

せっかくならと、俊一とレジーヌは前の日の朝に美沢を出て札幌の実家に泊まり、中学校入学に必要な勉強道具や新しい机、衣類などを購入した。久しぶりの孫との対面に俊一の父も母も喜び、母親はあれこれとレジーヌの買い物に付き合い、予定外の物まで買ってくれた。夜になってビールを飲みながら久しぶりに母親の手料理に舌鼓を打っているときに、俊一は父親に訊ねた。

「そろそろ美沢に引っ越してこないか?」

二年前から俊一は両親に対して美沢への移住を持ちかけていた。

数十年間暮らしてきた札幌を出る事に対し、両親は未練を感じていたが、ここ数年の冬の間の雪の多さに彼らはもう疲れ切っていた。父はこの二月、家の前に積もった雪をよけているときにぎっくり腰に罹った。

「そうだなあ。今年の秋までにこの家も売って、けりをつけるか・・・」

父親は半ば諦めかけたかのように笑って応えた。

「そうしなよ。札幌にはいつでも遊びに来られるんだからさ」

俊一がそう言うと、話を聞いていたレジーヌが喜色満面で声を放った。

「やったあ! お爺ちゃんとお婆ちゃんが美沢に来て一緒に住めるの?」

それを聞いて老夫婦は嬉しそうに笑った。


大勢の乗客がベルトコンベアの周りに集まり、それに乗ってやって来る荷物を待っているのが見える。俊一親子はその中にドン・カルロの姿を探した。

遠いのでなかなか確認できずにいたが、やがてスーツケースを引きながら出口のガラス扉に近づいてくる中肉中背の老人を見た時に、俊一は懐かしさに胸が熱くなった。幾分腰が曲がり、前かがみで歩いてきたドン・カルロは、俊一を見つけて手を上げた。

「ドン・カルロ!」

走り寄って俊一は腕を広げた。

老人は目を細めて微笑み、俊一を抱擁してその頬を擦り付けてきた。

「シュン。元気そうじゃの!」

「あなたこそ!」

そう言って二人は見つめ合った。

その時俊一はドン・カルロの背後に若い女性が同じようにスーツケースを携えて立っているのに気が付いた。
女性は微笑みながら俊一とドン・カルロの様子を見ている。
明らかに南米の女性だが、実に美しい顔立ちをしていた。

ドン・カルロは思い出したように言った。

「おっと、シュン。彼女は今回ブラジルからずっとわしと一緒だったんだが・・・誰かわかるか?」

「え? 二人連れと仰っていたのはこの方だったんですか? 僕はてっきりドン・カルロの奥様がご一緒なのかと思っていたんですが」

「女房は三年前に死んだよ」

「・・・知りませんでした」

「まあ、それよりも彼女が誰か解らんのかね? シュン」

女性は美しい眼差しでじっと俊一を見つめている。

数秒間俊一はその女性を見つめて記憶を辿った。そして背骨に電流が走るような感覚を覚え声を発した。

「マ・・・マヌエラ・・・?」

俊一がそう言葉を発するのを聞き、女性の笑顔はより明るく輝いた。

「俊一さん、覚えていてくれたんですね。有難うございます。マヌエラ・オールモス・コスタです」

見事な日本語が彼女の口から飛び出した。

ドン・カルロが大きな声で笑って言った。

「シュン、眼が真ん丸だぞ!」

「ドン・カルロ・・・これっていったい・・・」

「まあ、あとでゆっくり説明するよ。それよりもシュン、この可愛いお嬢ちゃんは?」

ドン・カルロとマヌエラは俊一の傍らに居たレジーヌを微笑んで見おろした。

「あ、これは私の娘、レジーヌです」

レジーヌは「こんにちは!」と元気な声で二人に挨拶をした。

駐車場に停めてある車まで四人はゆっくりと話しながら歩いた。

マヌエラの美しさにレジーヌもワクワクとした様子で俊一に耳打ちした。

「パパ、あの人すっごく綺麗ね。映画の女優さんみたい!」

俊一はドン・カルロのスーツケースを引き、レジーヌもマヌエラのスーツケースを引くのを手伝いながら停めてあったフォード・エクスプローラーの前まで来た。

先月買ったばかりの新車である。
十数年乗ったおんぼろジープは美沢の家の車庫に眠っている。

車のトランクを開けて荷物を載せる時、俊一は再びマヌエラの顔を見た。

「ありがとうございます」

そう言って俊一にスーツケースを手渡した時、彼女の長い黒髪が揺れた。
マヌエラは眩しいほど美しい女性に変貌していた。

俊一の隣にドン・カルロが乗り、レジーヌとマヌエラは後部座席に乗った。
 
「失礼だけど、マヌエラ、君は幾つになったの?」

俊一がルームミラー越しに彼女を見て訊ねた。
 
「二十六歳です。七月には二十七になります。俊一さんは?」
 
「僕は四十二だよ」
 
「そうですね、十六歳違うんですものね」
 
「ところでマヌエラ、まるで日本人みたいに流暢な日本語だけど、どこで覚えたんだい?」

彼女の発する日本語は通常外国人が話すそれとは全く違い、アクセントも抑揚も完ぺきだった。目を閉じて彼女の話すのを聞くと誰もが絶対に日本人だと思うだろう。

「有難うございます。サンパウロの大学で日本語を専攻しました。卒業した後も、日本人のお宅で下宿していたんですよ」

「何故、日本語を専攻しようと思ったの?」

俊一がそう訊くとマヌエラは一瞬沈黙した。

その時ドン・カルロが言った。

「二人ともわしに解らん言葉で何をしゃべっとるのかね?」

「いえ、特別な事ではありません。マヌエラがどうして日本語を学ぼうと思ったのか訊いていたのです」

俊一が英語で応えた。

それを聞いたドン・カルロは大声で笑った。そしてこう言ったのだった。

「シュン、お前は罪な男だのう!」

俊一にはその言葉の意味が解らなかった。

車は夕張市の郊外を抜けたところだった。

レジーヌが持ってきたニンテンドーDSをマヌエラに見せ、ゲームの途中の画面を指差してコロコロと笑う声が聞こえた。

(つづく)

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<連載小説>楡の震え 92


俊一は雪が解けて顔を出した家の芝生に立ちながらその中央に立つ楡の大木を見上げた。

その足元は秋に落ちた葉がまるで濡れて広がるカーペットのようになっていたが、枝々にはほんわりと新芽が出て、樹全体にやわらかな産毛が生えているかのように輝いていた。

ふと見ると年老いた猫のガートがベランダから出て来た。
美沢に移ってからずっと俊一の傍に居たガートも、もう人間に当てはめると百歳は超えているはずだ。
最近は目も弱り、あまり動いて歩かなくなったが、気持ちの良い春の日差しに誘われたのだろうか。
 
俊一はガートを抱き上げてしばらく芝生のに立ちあれこれと話しかけた。
 
「もうすっかり春だなあ、ガート。そろそろ畑の準備に取り掛からないとな」
 
ガートは俊一の腕の中で目を細めながら喉を鳴らしている。
 
「明日はいよいよ農業委員会の決裁の日だぞ。二十ヘクタールだぞ、ガート。トラクターもでかいのを買わないとな。あ、やっぱりダンプも要るなあ」
 
俊一はすっかりと地元の農家たちからの信頼を得ていた。通常、農地はおいそれとよそから来た者には譲渡されない。それを武藤が根気よく動いてくれたおかげで、美沢に移住して十五年目にやっと大規模な購入を許されることになったのだ。俊一は武藤に言い知れない感謝の気持ちを抱いていた。農業だけではなく俊一の人生の様々な部分で武藤は自分を擁護し励ましてくれた。

居間に戻った俊一は壁に飾ってあるフランソワの写真を見つめた。写真のフランソワはその美しい眼差しで、ずっと俊一とレジーヌの毎日を見守ってきた。寂しさに心が折れそうになった時にも、俊一はその写真を見て気持ちを立て直すことが何度もあった。

「フランソワ、レジーヌが小学校を卒業したよ」
 
静かに写真に話しかける俊一をフランソワの笑顔が見つめていた。
 
その時居間の電話が鳴った。
 
「シュンかね?」

英語のしわがれた声が聞こえた。

一瞬パリの義父、ルイ・ミッシェルかと思い、「お父さん?」と尋ねたが、義父であればいつも俊一の携帯電話にかけてくる。いや、まずはジャン・ポールがかけて来て、その後義父に電話を代わるのが通常であった。

「もしもし、どなたですか?」

「わしの声を忘れたかな? カルロ・ジョバンニだ」

俊一は飛び上がりそうになるくらい驚いた。

あのアンデスのカルレ村で世話になった村長、ドン・カルロである。

「ドン・カルロ!」

「おお! 覚えておったか」

そう言って電話口の老人が笑い声を発した。 

「元気かね、シュン」

「ドン・カルロこそ。お元気ですか?」

「ああ、歳をとってあっちこっち弱くなったが元気でやっとるよ」

「どうなさったんです?」

「実はな、今ロサンゼルスの空港におるんじゃが、これからナリタに向かうんだ」

「日本に来られるのですか?」

「ああ、日本政府に招待されてのう。日本の農業を視察しに行くことになった。それでな、いろいろ行事が終わったら、シュン、お前さんに会いに行きたくってなあ。ナリタからキートスまでのチケットも手配したんじゃよ」

「キートス・・・ですか?」

「そうじゃろ? キートスじゃろ? お前さんの住んでいるところは」

俊一はすぐに理解した。そして一瞬可笑しくなった。

南米の人間にとって千歳(Chitose)はそのローマ字を読むとキートスという発音になる。

「はい。そうです、そのキートスから車で三時間の所に住んでいます」

「そうか、シュン、会いに行ってもいいか?」

「もちろんですとも、ドン・カルロ!」

「こっちは二人連れじゃ。それでは農業視察が終わったらまた連絡するがキートスには来週の金曜日の昼に着く。迎えに来てくれんか?」

「わかりました。金曜日ですね。必ずお迎えに上がります」

「楽しみにしておるぞ、シュン」

「こちらもです。ドン・カルロ、お気をつけて」

俊一は嬉しくて小躍りしたくなった。

あのドン・カルロが訪ねてくる!

カルレ村では何から何まで世話になった記憶がよみがえる。

精一杯のもてなしをしようと俊一は思った。

(つづく)

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<連載小説>楡の震え 91

****

「栗城レジーヌさん」

「はい」

名前が呼ばれ、亜麻色の長い髪をした少女が澄んだ声を発して立ち上がった。
少女は明らかにハーフと思われる美しくエキゾチックな顔立ちをしていた。

陸別小学校六年一組。

今日はレジーヌの卒業式である。

少女の可憐さに卒業式に出席した大人たちはあらためて注目した。
初々しい中学校のセーラー服の肩の後ろに長くさらさらとした髪の毛が揺れる。
静かに壇上に上がった彼女は卒業証書を読み上げる校長先生の目を見つめた。

「六年一組。栗城レジーヌ。以下同文」

両腕を伸ばし証書を受け取るレジーヌの右側からカメラのフラッシュがたかれた。
背広に身を包んだ父親、栗城俊一のカメラが発したものだった。

「おめでとう」

校長が静かに声をかけた。
レジーヌは静かに頭を下げ、教えられた作法にのっとり右手にその卒業証書を持ち壇上を降りた。

カメラを持って保護者席に戻る俊一の耳に、同じ卒業生の母親たちが囁く声が聞こえた。

「やっぱりレジーヌちゃん、モデルみたいだね」

「ホントに綺麗ね」

俊一は聞こえなかったふりをしてそそくさと席に戻ったが、内心はまんざらではなかった。
保護者席の後方には一般の人々も参列しており、その中に武藤夫妻の姿も見えた。
目が合った武藤が笑顔で俊一に頷いた。

俊一はこの十年間を静かに振り返っていた。

その死を傍で看取ってあげる事ができなかったフランソワの遺体とルアーブルの総合病院で対面した時、俊一は無防備に声を上げて泣いた。同行の者も皆俊一のその姿を見て涙した。

フランソワの葬儀は初めに家族葬で行ったが、火葬を終えた一週間後にはル・カンフ財団の社葬として大々的に行われた。全社から三万人を超える人々が財団の本部に設置された祭壇に献花をした。

父親のルイ・ミッシェルはかなり衰弱していたが、フランソワの遺骨が一家の墓におさまり、葬儀がすべて終わるころには少し元気を取り戻した。

「シュン・・・レジーヌの事だが」

ルイ・ミッシェルがそう切り出したとき、俊一は即座に応えた。

「お父さん、レジーヌは日本に連れて帰ります」

父親は静かに俊一を見つめた。

「君も、レジーヌも、このパリに残って生活する事はできんのかね」

そう訊いて来た父親の目は寂しそうであった。

「お父さん、ご心配なさらずに。必ず最低年に1―2回はパリに帰ってきます。お父さんもいつでも日本にいらしてください。私たちは家族なのですから」


フランソワの死後三か月間、俊一はパリで過ごした。
ル・カンフ財団の新しい会長には、ルイ・ミッシェルの弟、クロード・ル・カンフが就任した。そしてその息子でありフランソワの従弟でもあったピエール・ル・カンフが補佐役として副会長の職に就いた。ピエールはフランソワと同じソルボンヌ大学の経済学部を卒業し、公認会計士の資格も有していた。

二月の末、パリではすでに桜が五分咲きだった。
二歳になったばかりのレジーヌを連れて俊一がフランスを発つ際、出発ゲートにはルイ・ミッシェルをはじめ、ジャン・ポール、アラン夫婦、そして財団の役員の主だった面々が見送りに来て別れを惜しんだ。レジーヌはきゃっきゃと笑いながら見送りの面々に小さなキスをして回った。とりわけレジーヌの祖父、ルイ・ミッシェルは孫娘を抱きしめ頬ずりをして涙をこぼした。

二歳のレジーヌを日本に連れ帰った時、フランソワと計画した家はほぼ完成しつつあった。
落成まで俊一は娘と木造のいつもの古い家で過ごした。聞こえてくる電動鋸や金槌の音を聞きながら、俊一はしばらく悲しみに浸った。最愛の女性と住むことができなくなってしまった家の完成が近づいて行くのを見るのは実に虚しいものであった。

しかし二歳児の子供を抱えた状態で、そんな風に悲しみに浸っている事は許されなかった。時々母親を思い出して泣くレジーヌを抱きながら俊一は必死だった。武藤夫婦もレジーヌを心底可愛がった。特に武藤の妻は母親のように娘の面倒を見てくれた。

完成した家の引き渡しを受け、初めてその寝室のベッドで眠り、穏やかな朝を迎えた時、レジーヌはまだ横で寝息を立てていた。

愛らしい娘の寝顔を見つめながら、俊一はレジーヌと二人、やっと落ち着いて生活してゆける自信がついた。
ソーラーパネルに蓄えられた電力が温水を作り、各部屋にパイプで給湯される暖房システムを持つ新築の家では、もう薪ストーブは必要なかった。猫のガートは新しい家にとまどっている様子であったが、起きてみるとしっかりと俊一親子の足元で丸くなって寝ていた。


十年はあっという間に過ぎた。

保育園、小学校の入学を経て、レジーヌはすくすくと育った。当初ハーフの子供は珍しかったために、方々で好奇の目で見られることが多かったが、しばらくしてそれも無くなった。栗城レジーヌはしっかりと美沢の子供として地域に溶け込んで育った。

夏休みと冬休みは、親子でフランスを訪ねた。ルイ・ミッシェルもこの十年間で三回、日本に来て美沢を訪れ、俊一の家で過ごした。三回ともジャン・ポールを伴っていた。アラン・デクアンも一度訪れ、武藤や川村との再会を楽しんだ。
 

卒業式を終えて帰宅し、寛いでいると居間の電話が鳴った。
 
「レジ、いますか?」
 
娘の親友、佐々木絵里加からの電話だった。
 
「レジーヌ、えりかちゃんから電話だよ」
 
セーラー服から普段着に着替えた娘が大急ぎで階段を下りてきた。
 
「パパ、えりかと北見に買い物に行って来てもいい? えりかのお母さんが買い物するんで一緒に行かないかって」
 
「そうか、いいよ。行っておいで。お金はあるのか?」
 
「うん。冬休みにお爺ちゃんがくれたお小遣いがまだまだある」
 
「そうか。気を付けてな」
 
 
数分後、絵里加母娘が乗った車が俊一の家の前に着いた。
 
「レジー」
 
絵里加が窓を開け手を振る。
 
「よろしくお願いします」
 
俊一は絵里加の母親に声を掛け、娘が出かけるのを見送った。
 
穏やかな春の午後であった。

俊一は四十二歳になっていた。

(つづく)

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<連載小説>楡の震え 90


幸いにも千歳で受け取った航空券は、午後十時半に羽田に着いた後、同じ羽田から午前零時四十五分に出るJAL便だった。

第一ターミナルから国際線ターミナルへ移動する際、夜遅かったが武藤に電話をした。
フランソワが事故に遭い重体である事。ガートをそのまま家に残して出てきた事などを知らせると、武藤はかなり驚いた様子だったが、いつものように心強い言葉で焦る俊一をサポートしてくれた。

「わかった、あとの事は任せておけ」

地鎮祭の事も俊一は武藤に話した。留守の状態でもなんとか行事を終わらせ着工させておきたかったのだ。心のどこかに、今危篤状態のフランソワとの夢だった新築のプロジェクトを中断してしまうと、同時にフランソワの命の炎も潰えてしまうような気がしたからだ。

「地鎮祭も心配するな。滞りなく済ませておくから。とにかく気落ちせずしっかりフランソワさんに付いていてあげてくれ」

武藤の言葉が嬉しく涙が出そうになった。

日本を離陸してフランスのシャルル・ド・ゴールまでの十二時間は長い。
北海道上空を経てロシアのハバロフスク、そしてバイカル湖、イルクーツクの上空を通り、シベリアの空を延々と飛行する。今まで何度も行き来した空であったが、これほどまでに飛行時間が長く感じることはなかった。

俊一はシートを倒して寝ようと努めたが、うつらうつらと眠りに落ちてはすぐに目が覚めた。
その都度、座席に据え付けられたモニターで飛行機の現在地を確認したが、それはまるでカタツムリの歩みの様であった。

この時ほどこの地球という惑星の大きさを実感したことはない。
1万キロ以上離れて家族が暮らすという事は無謀な事だったと思った。
そして悔やんだ。あまりにも自分は安直過ぎた。
フランソワとレジーヌの為に片時も離れてはいけなかったのだと自分を責めた。

深く眠ってしまえば、次に目が覚めた時には、飛行機はヨーロッパに入っているかもしれない。
そう思い、俊一は客室乗務員にウィスキーの小さなボトルを頼んだ。それをオンザロックにし、二本飲んだところでようやく眠気が来た。

日本を離陸して四時間が経過していた。
あと八時間。
俊一の腕にはめられたカシオのGショックウォッチはフランス時間の午後九時過ぎを示していた。


ジェットエンジンの音が通奏低音のように耳の奥で聞こえていたが、俊一はフランソワの夢を見た。

彼女は微笑みながら俊一の隣に居た。
穏やかな表情でその眼は俊一を見つめている。
やっと逢えたという感慨が胸に迫り、俊一は声を出した。

「フランソワ」

嬉しくて涙が出た。

フランソワは両手を俊一の頬に当て、キスをしてきた。
その唇は柔らかく暖かだった。
彼女の美しいブロンドの髪の毛が俊一の目の前で揺れた。
彼女は優しい声で囁いた。

「愛してやまないわ、シュン」

俊一は幸福に満たされて目が覚めた。

飛行機はフィンランドの上空に差しかかっていた。
時計を見ると午前四時であった。あと二時間でシャルル・ド・ゴールである。
もうヨーロッパまで来たという安堵の念が胸にこみ上げた。



ルアーブルの病院の集中治療室の前にはフランソワの父ルイ・ミッシェル、アラン・デクアン、そしてジャン・ポールが肩を落としていた。

午前二時半過ぎからフランソワのバイタルは悪化し、血圧も急激に下がった。

医師たちの懸命の措置もむなしく、彼女は静かに息を引き取った。

ジャン・ポールが腕時計を見た。

午前四時であった。

(つづく)

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<連載小説>楡の震え 89

*****


「栗城さん、お振込みを確認しました。地鎮祭は来週の十一月二七日。着工は十二月の六日にします。いずれも大安吉日です」

自宅の新築を依頼した北見市の建設会社の設計士兼営業部長である鈴木から電話が来た。

俊一の自宅の新築工事は太陽光発電施設を含めて一億二千万円になった。手付金としてまず五千万円を昨日振り込み、落成後に残金の七千万円を一括で支払う契約であった。

「私どももこれほどの規模の戸建て住宅を手掛けるのは実に久しぶりです。腕をふるわせていただきます」

鈴木の声は弾んでいた。

「来月の中旬にはしばらく日本を離れますが、ちょくちょく見に来ます。くれぐれもよろしくお願いします」
そう返事をして俊一は受話器を置いた。

現在住んでいる離農跡の建物は家が完成したら取り壊して芝生の庭にする予定でいる。
新築の家屋は向かいの納屋や旧畜舎を取り壊し、玄関先の楡の大木はそのまま残してそれをとり囲む「コの字型」の設計になった。

窓から夕陽が差し込み、初冬の美沢にはその日小春日和が訪れていた。ストーブの中で薪がはぜた。
猫のガートはいつものように毛足の長いカーペットの上で、ストーブの方向に腹を向けて長くなって寝ている。

『この家とももうすぐお別れか・・・』

俊一は名残惜しく部屋の隅々を見渡した。

その時ポケットの中のアイフォンが鳴った。

「ん? ジャン・ポールだ」

着信画面を見てひとりごとを言い、俊一は電話に出た。

「ムッシュ、マダムが大変です・・・」

俊一はジャン・ポールの話を聞き、一瞬意識が遠くなるのを感じた。

警察からの連絡が財団に入ったのは事故からおよそ十二時間後であった。身元の確認に手間取ったのはコンテナの下敷きになったクライスラーが原型を留めないほどに潰れ、レスキュー隊がカミーユの遺体とまだ生存しているフランソワを車内から引き出すのに三時間を要した事。車のナンバーからル・カンフ財団所有の車両だという事はすぐに判明したが、乗っていた人物を特定するのには時間を要した。救急搬送されたフランソワは身分証明書も身に着けておらず、車内に散乱した遺留品の中から身元を判定する作業に手間取った事が重なった。

フランソワの生存は奇跡に近かった。

カミーユが後部座席に飛び移って彼女の上に覆いかぶさり、その上に直接十三トンのコンテナが押しつぶした車の屋根がのしかかった。カミーユは瞬時に圧死したが、フランソワの身体は衝撃の際にちょうど車の座席の足元に落ち、そのわずか二十センチほどの隙間に巧く体がおさまった事。そしてカミーユの身体がそれを守るかのように蓋の役目を果たしたのであった。

警察から財団に電話が来たのは夜中の十二時をまわっていたために、夜勤のガードマンが会長宅の電話番号を教えた。フランソワの家でレジーヌを寝かしつけていたアランの妻が、階下で鳴り続く電話の音に気がついた。

アラン夫婦は父親のルイ・ミッシェルを起こして事態を告げ、一足先にアランの車でルアーブルの病院に駆け付けた。連絡を受けたジャン・ポールもまだ微熱は続いていたが三十分遅れで病院に着いた。集中治療室の前に三人が揃ったのは午前三時を過ぎていた。

「非常に深刻な状態です」

そう言って医者が話を始めた。
フランソワは大腿骨二か所と背骨が折れていた。そして肝臓と腎臓から夥しい出血があり、それを緊急手術で食い止めはしたが、予断を許さない状態だった。意識はなく血圧もかなり低下していた。

警察の一人がジャン・ポールに近づき、静かに声を掛けた。

「こんな時に申し訳ないのですが、もう一人、運転手と思われる方の御遺体が警察の安置所に搬入されています。身元をご確認いただきたいのですが」

ジャン・ポールはルイ・ミッシェルとアランの方を見た。二人は何も言わずただジャンを見て頷いた。

警察署は病院から車で五分の所にあった。
案内されて入室した地下の安置所には大型の冷蔵庫の蓋のようなものが幾つも並んでおり、その中のひとつを案内役の警察官が開けた。カミーユの遺体は寝袋のような形の黒い袋におさまっていた。

「ご確認ください」

そう言って警官はジッパーを下ろす。

ジャン・ポールは思わず目を逸らした。

カミーユの頭部は完全に潰されており、顔が原型を留めていなかった。しかしジッパーが下ろされていくにつれて彼の胸元に着いた会社のバッジが確認できた。それは間違いなくル・カンフ財団のものであり、どんな社員も胸に付けている物だった。そしてバッジの裏側には必ずその社員の名前が刻印されてある。

ジャン・ポールは警官に「ちょっと見させてください」と声を掛け、そのバッジを外して裏側を観察した。
そこにははっきりと「カミーユ・シモン」と刻印されていたのだった。

カミーユへの家族への連絡もジャン・ポールが行った。

財団の運転手を急遽彼の自宅へ派遣し、カミーユの妻と子供らを乗せ、すでにパリを出たと報告を受けた。

俊一に電話をかけた時には、ルアーブルの街の空が白々と明けてきていた。



ジャン・ポールからの電話を終え、俊一は急遽札幌の旅行代理店に電話を入れた。

「これから千歳へ向かいます。三時間後には着きますので、千歳から東京もしくは成田―パリ間の一番早い航空券を手配してください。航空会社はどこでも構いません。チケットはそちらの千歳のカウンターで直接買います」

ジープのエンジンが音を立てた。

千歳発午後九時の東京行に間に合うか間に合わないか定かではない。

しかし躊躇してはいられなかった。たとえ東京で一泊せざるを得なかったとしても、明日の朝一番のパリ行で日本を出なくてはと必死だった。

(つづく)

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<連載小説>楡の震え 88

午前十一時〇五分。

高速道路は一旦北海の海岸から離れ、右に緩やかに曲線を描きながら前方にある低い山を迂回するように伸びる。長いカーブを過ぎ、山陰に入ってカミーユは車の速度を落とした。
 
「一昨日降った雪が解けないでまだ残っていますね。ところどころ路面が凍結しています」
 
「そう? 気を付けてね」
 
フランソワが声をかけた。
 
ラジオからは早口のDJが芸能スキャンダルを報じている。カミーユが手を伸ばしてチャンネルを変えると静かなバイオリンの調べが聞こえた。フランソワは会社から渡されたリゾート施設の全体像のグラフィックに目を落としていた。
 
「ん?」

その時運転席でカミーユが声を上げた。

フランソワも前方を見た。

道路はなだらかな登りになっており、その向こうに日が当たっている。ちょうどその坂道の頂上から一台のコンテナトレーラーが姿を現したところだった。

異様な事態はフランソワもすぐに呑み込めた。その大型トレーラーの運転キャビンの後方にあるコンテナシャーシが右にはみ出しているのである。

二人の乗っているクライスラーとの距離が二百メートル程に迫った時、シャーシのはみ出し具合はますますひどくなり、運転席から右側四十五度の角度で折れ曲がっている。

カミーユはゆっくりとハンドルを路肩の方向に切り速度を落とした。

「トレーラスイングですね」

カミーユの言葉にフランソワは緊張した。

トレーラスイングという言葉は以前聞いたことがあった。

おそらく勢いよく緩やかな右曲りの坂道を駆け上がり、頂上を過ぎたところで、トレーラーの運転手は凍結路面に気付き、ブレーキを踏んだのであろう。しかし総重量が二十トン以上ある荷台のコンテナはそのブレーキの制動能力をはるかに超える惰性を持つ。自ずと、今までけん引されているだけだった荷台の連結部分には、下り坂で今度は運転キャビンを押す力学が働くのだ。一旦右に曲がりながらそこでブレーキを踏まれると、トレーラー側のブレーキがロックを起こした場合、遠心作用によって荷台のシャーシは左に流れる。

それによって起こる事は明白だった。シャーシは、ブレーキの制動が抵抗となり左に曲がったまま、つまりフランソワ達から見て右側に流れ出たまま運転キャビンを押しながら進む。その時点で運転手がブレーキペダルを離し、急速に運転速度を上げればおおかた事態は収拾し、元の状態に戻るのであるが、運転手は坂道の行く手約四百メートルの所にある右カーブにも気付き、速度を落とさないとならないと判断したのだろう。

「危ない!」

カミーユが声を上げた

荷台の押す力に耐えられなくなったトレーラーは百メートルほど前方まで来て、運転席とコンテナの角度が九十度近くになり、そのままゆっくりと横転し始めた。大音響とともに横倒しになったその巨大なコンテナシャーシが中央分離帯を乗り上げ、ガードレールを粉砕しながらもの凄い勢いで迫って来た。

逃げ道はなかった。

次の瞬間が訪れるまで、すべてがスローモーションのように見えた。

「マダム、身を伏せて!」

シートベルトを外し、運転席の背もたれをを倒したカミーユが、まるでジャンプするかの様にフランソワの上に覆いかぶさってきた。必死の形相であった。その背後にまるで映画のワンシーンの様に白いコンテナの屋根が雪煙を上げて迫ってきた。

激しい衝撃が車体を襲った。


遠くに救急車の音が聞こえフランソワは目を開けた。ぼんやりとした視界の中で二人の救急隊員の顔が自分を覗き込んでいるのが解った。

「聞こえますか? わかりますか?」

その内の一人が耳元で大きな声を上げる。

「ウィ」

自分の声がくぐもっているのは付けられている酸素マスクのせいだと解った。

自分は今救急車で運ばれているのだという事がその時ようやく理解できた。

『カミーユは?』

フランソワはおぼろげな意識の中で彼の事を考えた。体が担架に固定されているのだろうか、まったく身動きが取れない。

『シュン・・・レジーヌ・・・』

心の中で二人の名前を呼ぶ。

そして再び意識が遠のいた。

フランソワは現場から三十キロの港町、ルアーブルの救急病院に搬送された。

カミーユは即死であった。


(つづく)

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<連載小説>楡の震え 87

11月20日。

フランス北岸の漁村、ディエップに建設中のリゾート施設の視察に向かう途中、フランソワは運転手と共に高速道路のサービスエリアでコーヒーを飲んでいた。

その日、ジャン・ポールは珍しく風邪をひき、早朝にフランソワの携帯に電話をしてきて休みを乞うた。

「わかったわ。今日の出張は取締役会についているドライバーにお願いするから、貴方はゆっくり休んで。熱が下がらなかったら病院に行かなきゃだめよ」

「マダム、申し訳ありません。くれぐれもお気をつけて」

「お大事にね、ジャン」
 
そう言って電話を切り、いつものようにアラン・デクアン夫婦とダイニングで朝食を済ませ、娘のレジーヌにキスをして家を出たのが午前八時半だった。

迎えに来た黒のクライスラーを運転していたのはカミーユ・シモンという初老の男性だった。
財団の役員の運転手をかれこれ四十年間務めて来たカミーユは来年退職を迎える。
笑顔が穏やかな男で、フランソワは子供のころから彼の顔を見て知っていた。
 
「カミーユ、おはよう。貴方に乗せてもらうのは初めてね。今日はよろしくね」

車の後部座席のドアを開けて待っていたカミーユに声を掛けると、彼はにこやかに応えた。
 
「ボンジュール、マダム。ご一緒できて光栄です」
 
 
二時間ほど走ったところでカミーユが運転席から声をかけた。
 
「マダム、次のサービスエリアでトイレに行かせてもらえませんか。いや申し訳ありません。歳と共に随分とトイレが近くなってしまいまして」
 
「そう? じゃあ、少し休憩してお茶でも飲みましょう」
 
フランソワは笑いながら応じた。

 
午前十時半。
穏やかな晩秋の太陽光に照らされた北海が窓の外に見える。

フランソワはゆっくりとコーヒーを飲みながら、カミーユと話をした。
四十年間の勤務での思い出話を聞くにつれ、財団がどのように発展してきたのか、ひとりの運転手の目を通して捉えられてきたその時々の風景を聞くのは非常に面白かった。

笑ったのはもう既に退職した元役員の誰それに愛人がいた事。
カミーユは数回夜中に電話で起こされ、その愛人宅に役員を迎えに行った経験がある。
やがて愛人の存在が本妻にばれ、激怒した妻に家を追い出されたその元役員は、カミーユの家にしばらく居候せざるを得なかった事など、彼は誰も知らない財団の秘話をあれこれと知っているようであった。
 
「パパにも愛人が居たの知ってる?」
 
そう聞くと彼は一瞬躊躇した表情を見せたが、「ええ、まあ」と応えた。
 
「ねえ、カミーユ、教えて。いったい私の父には何人の女が居たの?」
 
「・・・私の存じ上げているところでは七人ほどではなかったかと思いますが」
 
「七人!」
 
「はい」
 
「せいぜい三―四人かと思っていたわ」
 
「お父様は精力的な方でしたからね」
 
「カミーユ、私、不思議でしょうがないんだけど、どうして男って浮気が好きなの?」
 
「さあ、それは人によるのではないでしょうか。私は結婚して四十五年になりますが、妻以外の女性と寝た事は一度もありません」
 
「そうなの?」
 
「ええ、神に誓って」
 
フランソワは一瞬、自分の夫である俊一の事を考えた。

『彼は浮気をするタイプなのだろうか』
 
そう思うと少しだけ不安が頭をもたげた。
 
 
「さて、そろそろ出ましょう」
 
「ウイ、マダム」
 
フランソワとカミーユは空になったコーヒーカップを置いて立ち上がった。


(つづく)

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<連載小説>楡の震え 86



美沢へ帰ったら一か月間の身辺整理を経て、その年の暮れから約一年間は農業も休み、俊一はパリで生活をするつもりだった。そのためには今年収穫された野菜や養豚の事。そして猫のガートについてあれこれと武藤に相談をしなければならない。そのための一時帰国と言ってよい。

俊一は生活のシフトをしばらくの間はパリに移すつもりでいた。
フランソワも会社の最終的な決裁権だけを持ちながら、世界中どこにいても電話とパソコンだけで仕事が出来るような状態になれるよう、財団の管理システムを整えていく計画だった。

一年ずつフランスと日本で、そして娘のレジーヌの教育に合わせ、その後は数年の間隔でどちらで生活するかを決めていく予定でいた。

家族離ればなれで生活する事は極力控えよう。それが二人の結論だった。

もうひとつ大きなプロジェクトを俊一とフランソワは計画した。
それは俊一が美沢に家を新築する事である。家族が日本で暮らすために居心地の良い家を今の場所に建てるのだ。

二人は何度もその概略をあれこれとスケッチブックに描いて楽しんだ。

俊一の大きくて明るいアトリエ。フランソワの仕事のためにOA機器とインターネット環境を完備した部屋、応接部屋から客間、そして家族用のダイニングルームとパーティーなどの時の為の大部屋、フィットネス器具を配置する部屋の場所取りなどをしていたら、結局それはかなりの豪邸になる。

しかし一気に貯蓄が増えた俊一には何ら心配はなかった。

フランソワと俊一には家の青写真を作る際、一つの共通したこだわりがあった。
それは大型のソーラーパネルを家の外に配置し、自ら電力を確保する事だった。

幸い離農跡の俊一の宅地の面積はすべて合わせて六百坪はあるから、可能な限り大きなソーラー発電システムを作ろうと話し合った。美沢は年間の平均日照時間が日本でも一位を誇る北見地方に属している。太陽光発電にはうってつけの場所だ。

帰宅したらさっそく評判の良い建築士を探して連絡を取り、一か月の間に図面を書いてもらい、できれば来春の着工に漕ぎつけたかった。

そんな事を考えているうちに飛行機はスカンジナビア半島の上空からロシアの領空に入った。
機内食で出されたワインとステーキで気持ちも満たされ、シートをいっぱいに倒して俊一は心地よい眠りに落ちた。

(つづく)

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<連載小説>楡の震え 85

フランソワの一か月の休暇はあっという間に過ぎた。

俊一たち三人はその間ジャン・ポールが運転するベンツでアルザス地方の村々を観光して廻り、最後はプロヴァンスまで足を伸ばした。

ちょうどカンヌで開催されていた映画祭を見物し、午後遅くニースのホテルへ戻る際に、フランソワが車内でひとつの提案をした。
 
「ねえジャン・ポール、シュンと私が初めて出会ったあの丘の場所を覚えている?」
 
「ウィ、マダム。覚えていますよ」
 
「あそこへ連れて行ってくれないかしら」
 
そう言ってフランソワは俊一を見て微笑んだ。俊一はフランソワの手を優しく握りしめた。
 
ハイウェイのジャンクションを降りて、車は細い道に入った。見覚えのある風景が続き、やがて緩やかな上り坂の途中に一軒の古いホテルが見えてきた。

出会った時に俊一が宿泊していたムーリエ・インである。

懐かしさが胸に迫った。
ジャン・ポールはその前を通過するときに車の速度を落とし、ゆっくりとその建物を見る時間をくれた。

ひとりのくたびれた日本人青年は、あの時よれよれのTシャツと破れたジーンズ、そして薄汚れたトレッキングシューズを履いていた。
 
つたに覆われた白いその建物は出会った当時のままの佇まいを見せている。そしてその玄関の脇には、あの当時の俊一と同じようないでたちの若者たちがベンチに腰かけて煙草を吸いながら会話をしているのが見えた。
 
「懐かしい」

 俊一は思わず呟いた。

 
丘にはすぐに到着した。
出会った場所は地中海を見渡すことのできるオリーブの木の下であった。
 
探すとそれはすぐに解った。幾分成長し、枝ぶりが広がってはいたが、間違いなくそれは俊一が背中をもたせ掛けていたオリーブの木だった。
 
「ここだよ、フランソワ」
 
振り向くとレジーヌを抱いたフランソワが微笑んでいる。
 
ちょうど地中海に夕陽が沈もうとしていた。
 
溢れるオレンジの光の海に包まれながら、家族はその木の下に立ち、遥かに広がるコートダジュールの風景を見おろした。

あの時と同じように、そよ風がフランソワの金髪を揺らしていた。
 
俊一は妻を抱きしめ口づけをした。
それを見て娘のレジーヌも、俊一にキスをしてくれと唇を俊一に向けてきた。
フランソワが笑った。
俊一も笑いながら娘に口づけた。


十一月十日。俊一は再びシャルル・ド・ゴール空港にいた。
妻と娘に見送られながら、出発ゲートを出た俊一の心には、以前の様な寂しさは付きまとう事はなかった。
次は一か月後にまたパリへ来てクリスマスを一緒に過ごすことになっていたからだ。

しかしその出発ゲート前での別れが、フランソワとの最後の別れになる事を、俊一はおろか誰ひとり知る由はなかった。

(つづく)

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<連載小説>楡の震え 84

時差ぼけのせいで夜中に目が覚めた俊一は、隣で寝ているフランソワの露出した肩に毛布をかけ、ベッドから立ちあがってレジーヌが寝ている傍まで行き、じっと娘の寝顔を見つめた。
 
ここ数年の間に自分の人生に大きな変化が訪れた事をひしひしと感じ、今こうしてパリの一角で、愛する妻と娘の前にいる事の深い感慨を味わっていた。
 
『もうこの二人とは離れたくない』
 
そう思うのである。
 
フランソワが自分を農業画家と呼び、美沢での暮らしを尊重してくれているのは心の底から嬉しかったが、こだわって暮らし続けるあの北海道の大地にいる事と、このパリでいつも妻と娘のそばに居る事と、どちらが自分にとって重要なのか。心の中にしっくりと来る答は見つからないものの、やはりこうして妻の温かみに触れ、娘を抱いた時に伝わってくる乳児特有の甘い匂いを嗅ぐと、一人で暮らす時とは違った意味での人生の幸福感に浸ることができた。

画家になりたいと北海道大学を中退し、ニューヨークへ渡った事からはじまり、現在に至るまで、すべての思い出が連鎖し、作用し合った結果が、今のこの幸福だった。

エクアドルの山中で追いはぎに遭わなければ、カレル村の村長、ドン・カルロと出会う事はなかった。カレル村に滞在していなければ、あの森の少女、マヌエラと会う事も無かった。マヌエラと会わなければ結びの儀式と呼ばれる呪術師の祝福を得る事も無かっただろうし、女性を膝の上に抱いただけで相手に対して底知れぬ幸福感を与えることのできる、他の男性が持つ事ができない特質を身につける事も無かった。

そして南米の旅の後、フランスに立ち寄ったがためにフランソワと出会う事ができたのである。
運命とは突然訪れるものではない。どんな些細な事であれ、それは連鎖しながら塵のように積り、やがては大きな変革を人生にもたらすのだ。
 
レジーヌの安らかな寝顔を見つめながら、俊一はそんな事を考えていた。

 
その時ベッドからフランソワが声をかけた。
 
「シュン、眠れないの?」
 
「あ、ごめん。起こしちゃったかな?」
 
「ううん、目が覚めたらシュンが隣に居ないから」
 
「そうか。ちょっと時差ぼけが出てね」
 
「ねえシュン、来て」
 
フランソワの両腕が毛布から伸びて俊一を招いた。
 
「うん」
 
ベッドに戻るとフランソワは俊一の肩まですっぽりと毛布を掛け、あたたかく抱きついてきた。
 
その肩を引き寄せ俊一も彼女をしっかりと抱きしめる。
 
「シュンの身体・・・懐かしい」
 
背中から降りてきたフランソワの手が、俊一の下着を静かに脱がし、両手で夫の中心をすっぽりと包み込んで優しく愛撫を始めた。
 
「フランソワ・・・」
 
柔らかくて暖かな快感に俊一は思わず声を出した。 

「気持ちいい? シュン」
 
「うん。とっても」
 
彼女の手の中で、俊一のそれは徐々に固くなり、熱を帯びてくる。
 
「僕も触っていい?」
 
「うん、触って・・・」
 
彼女の薄い下着を優しくおろし、左手をフランソワの股間に伸ばすと、彼女は脚を開き気味にして俊一の目をじっと見つめた。

俊一の指にしっとりとした湿り気が伝わる。
優しくその中心にある花弁を愛撫すると指先に熱い液体が絡み付いてきた。
やがてその先の中央部にあるわずかなふくらみを人差し指の腹で転がすと、彼女の口が開き、熱い溜息がこぼれ出た。
 
二人はしばらく見つめ合いながらお互いの一番愛おしい部分を愛撫し合った。
やがて大きな快感のうねりに身を任せながら身体を反転させ、夫婦はお互いの身体を貪るように口に含んだ。

俊一の上にフランソワがかぶさるような態勢になり、その頭は仰向けになった俊一の下腹部の上にあった。
俊一のペニスをいつくしむかのように咥えて愛撫を続ける彼女の股間はちょうど俊一の顔を跨ぎ、目の前に麗しく濡れて輝く花弁があった。俊一もそれを愛おしく口をつけて味わうのだった。

 
未明の薄暗い部屋に二人の熱い吐息が溢れた。やがて態勢を変えた俊一はフランソワを仰向けに寝かせ、愛おしい彼女の身体に覆いかぶさる。彼女は脚を広げて夫を迎え入れた。
 
「ああ・・・シュン」
 
「フランソワ」
 
「愛しているわ・・・愛しているわ」

吐息に声を交えながらフランソワもゆっくりと腰を上下させる。俊一もそのリズムに合わせるかのように自分の中心を彼女の中で浅くそして深く動きを繰り返しながら腰を上下させた。
 
二人の動きのリズムが徐々に速くなってゆく。彼女の長い爪が俊一の背中に立つ。
 
「シュン、一緒に・・・一緒に」
 
「フランソワ・・・イってもいい?」
 
「来て、シュン、私もイク・・・来て、来て、ああ、シュン・・・・!!」
 
 
俊一は自分の腰の奥深くからそれまで押さえつけていた鋭い快感が迫り、そしてそれがかなりの勢いを伴って最愛の女性の中へ噴き出して行くのを感じた。

それと同時にフランソワの身体が一瞬感電したかのようにビクビクと震え、俊一の中心を包んでいた筋肉が脈を打つようにそれを締め付け、そして一滴も取り逃がさないというような意思さえも感じさせる反応を見せた。

二人が同時に味わう天上の至福の瞬間であった。

(つづく)

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<連載小説>楡の震え 83

食卓を囲んで座る前に、フランソワは彼女の親戚たちをひとりずつ俊一に紹介した。

ブルボン王朝の直系の血を引く家系だと何年も前に聞かされてはいたが、実際に彼女の身内に会うのは初めてだった。紹介された叔父たちは、皆一様に事業家であり、ル・カンフ財団の役員を務めている者もいた。

この日の為に用意された三名のシェフが奥のキッチンで腕を振るい、サービスを担うギャルソンが二名、忙しく厨房とダイニングルームの間を行き来しながら料理を運んでくれる。弾む会話はフランソワと俊一の出会い、そして今後はどうするのかという話にまで及んだ。俊一が答えに躊躇していると、フランソワが一人の伯母にこう告げた。
 
「しばらくは日本とフランスを行き来しながら両方で暮らすことになるわ」
 
それを聞いて伯母は首を傾けながら言った。
 
「フランソワ、でも夫婦が離れて暮らすのは良くないわ。ムッシュ・クリキにフランスに引っ越してきてもらうのはどうなの? 絵描きさんなら世界中どこででも仕事が出来るじゃない」
 
フランソワが笑いながら返す。
 
「フエズおばさん、シュンは農業を営んでいるの。しっかりと大地に根を張った農業画家なのよ。農業をやめて画家の仕事だけに専念したら、シュンはシュンではなくなっちゃうのよ。それに私、彼の畑仕事も手伝ってみたいの」
 
その言葉を聞いて俊一は驚いた。
 
彼女がそこまで自分の事を考えてくれているとは思わなかったのだ。

驚きの感情はやがて彼女に対する深い感謝の念に変わった。
 
『伴侶』という言葉がこれほどまでにしっくりとくる瞬間は初めてだった。
 
「それはそうかもしれないけど・・・。でもねえ、やっぱり夫婦ってのはいつもそばにいて、ベッドも共にしながらじゃないと・・・」

伯母は心配そうに二人を見る。
 
「おいおい、フエズ、今の若者たちはわしらの頃とは世界も価値観も違うんだよ。心配無用、この二人はずっと幸せにやって行けるさ」

そう言葉を挟んで話を遮ったのは伯母のフエズの夫であり、ルイ・ミッシェルの弟でもあるクロードだった。

会食も終わりに近づいた頃、俊一の隣でレジーヌに食事を与えていたフランソワが俊一の耳に顔を近づけ囁いた。
 
「私たちは出来るだけ早く切り上げて部屋に行きましょ。この分だとレジーヌはあと三十分で寝るわ。その後が楽しみね。ふふふ」

その夜、二人は本当に久しぶりに肌を合わせた。

寝台の傍らには木製の柵がついたベビーベッドがあり、レジーヌがすやすやと眠っている。

フランソワの胸は以前と比べて随分と大きくなっていた。乳首も、そしてそれを取り囲む乳輪も少し黒ずんで大きくなっている。それは明らかに彼女が母親であることを表していた。俊一はうっとりとそれに頬をつける。
 
「うふふ。シュン、私の母乳見てみたい?」
 
「うん」
 
フランソワが自分の右手で持つ乳房の先を俊一は子供のように見つめた。
彼女が手に力を入れると乳首の先から白く濁った液体が勢いよく出てきた。
 
「うわあ」
 
思わず声を出す俊一に、フランソワはクスクスと笑った。
 
「飲んでみる?」
 
フランソワがいたずらっぽく訊ねる。
 
「う、うん」
 
そう言ってその乳首を口に含むと、再び彼女は手に力を入れた。口の中で水圧が弾け、ほのかに甘い味が舌の付け根に残った。
 
「甘いんだね」
 
「そう?」
 
「うん、甘い。レジーヌは生まれてからずっとこれを飲んでいたんだ」
 
「最近は離乳食も少しずつ終わらせて固形のものにも馴らさせてはいるんだけど、でもまだこのおっぱいを欲しがるの」
 
 
耳元の彼女の声に、俊一は母性の深さと温かみを感じた。

顔を預ける彼女の胸、そして合わさったその身体の温度が、男の俊一を優しく包み込む大きな海のように感じるのであった。

(つづく)

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<連載小説>楡の震え 82


「シュンイチ。君には随分とひどい事をしてきた。今頃になってこんな事を云っても遅いのだが、私の気持ちを理解してくれると嬉しい。本当に済まないことをした」

広いダイニングルームの片隅にはバーカウンターが設置されており、そこで食前酒のパスティスをグラスに注いだ後、そのひとつを俊一に手渡したルイ・ミッシェルが、じっと目を見つめて詫びた。

静かだが心に沁みる声であった。

「ありがとうございます。今こうして貴方と向き合えることが夢のようです。この瞬間を私にプレゼントしていただいた事に感謝しています。何よりも貴方が原子力発電所の建設をおやめになった事は、今後世界が高く評価するでしょう」

俊一も静かに相手の目を見つめて答えた。

「ありがとう。ところで君の絵だが、日本で描いてくれた百枚の絵は、私が個人で買わせてもらう事にした。フランソワにもこれは言ってある。せめてもの罪滅ぼしのつもりなのだが、良いかな?」

「もったいないお言葉です」

「代金は当初フランソワが買っていたのと同じ額で。私がこれから一か所ずつホテルを廻って寄贈して行くつもりだ。何せ引退してから庭いじりしかやっていないのでね。退屈でしょうがない。車で全ヨーロッパを回りながら、君の絵を配って歩くつもりだ」

そう言って笑うルイ・ミッシェルの笑顔は実に楽しげだった。
 
「あら、二人で何の会話?」
 
レジーヌを抱きながらダイニングルームにやってきたフランソワが声をかけてきた。
 
「彼の絵の話をしていたんだ」

ルイ・ミッシェルがレジーヌに手を伸ばしながら応えた。
 
孫娘は自ら手を伸ばし、祖父の腕におさまった。
 
「レジーヌ、おじいちゃまにキスは?」
 
フランソワがそう言うと、祖父の腕の中のレジーヌが顔を上げ、唇を尖らせてルイ・ミッシェルの唇にキスをした。
 
「んんん」
 
キスを受ける老人の顔は幸福感に満ちている。目を細め自分も唇を突きだし目尻には何本もの皺が刻まれていた。
 
「さっき父が貴方に払う代金の手続きが終わったわ。まとまった金額なので、銀行から根掘り葉掘り聞かれたけど」
 
フランソワが笑って言った。
 
一枚が五万ユーロだった。
 
百枚分の五百万ユーロが明日俊一の銀行口座に振り込まれる。

日本円にして六億二千万円以上である。北海道銀行陸別支店ではどよめきが起きるかもしれない。いや、いずれにしても税理士とも打ち合せが必要だ。いったい幾ら税金を払う事になるのだろう。そんなことが頭を駆け巡った。
 
「さあ、食事にしよう」
 
ルイ・ミッシェルが声を放った。
 
見るとダイニングルームにはジャン・ポールやアラン・デクアン夫婦のほか、他の護衛や今まで会った事のない複数の人間が揃っていた。聞くとフランソワの叔父や叔母、そしていとこ達であった。
 
「みんなシュンに会いたくて来てくれたのよ」
 
フランソワが嬉しそうに言った。

(つづく)

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<エッセイ>妄想の海

エッセイ教室「檜葉の会」の三月例会に出品する作品を書きました。

昨年の十月中旬からインターネット上にブログを作り、「楡(エルム)の震え」という連載小説を書き続けている。

きっかけは生まれ故郷の深川に、八十歳を超えた読書好きの叔母がおり、彼女に今まで書いた作品を時々送って読んでもらっていたのだが、ひと作品ごとに電話で褒めてくれていた叔母がこう言った事に端を発した。彼女はいまだに僕の事を「悠介ちゃん」と呼ぶ。

「悠介ちゃんの作品には気品があって、幅が広くて大好きなんだけど、女性の描き方が今ひとつかな。男と女の湿った匂いがしないのよ。女ってもっと複雑なものなのよね。そんなのを勉強するには伊集院静なんかを読むといいわよ。今度はもっとドロドロしたものも書いてみるといいかもね」

あまり女性経験が豊富ではない僕には難しいプロジェクトではあったが、とにかく試してみようと思った。

第一話から始まり、何もない限り毎朝五時に起きてパソコンに向かうようになってから三か月が経過した。連載も第八十話を超え、原稿用紙に換算すると四百五十枚を超えた。あと五十枚ほどで完結の見通しだが、生まれて初めての試みである。作品としては荒唐無稽なものに過ぎないが、家族が起きて二階から降りてくる午前六時半までの間に、毎日原稿用紙に五枚から六枚を書いてきた。

ブログというのは面白いもので、殆ど宣伝もしていないのに、見知らぬ人が向こうからやって来て、稚拙な作品でも読んでくれるようになる。まるでどこかの街角でギターを弾いて歌い始めるストリートミュージシャンと同じだ。一人が立ち止まって聞いてくれ、その後ポツポツと人が増えて行く。平均約四十名、多い時で七十名の人が見に来る。その中でレピーターといって、一見の閲覧者ではなく、繰り返し読みに来てくれる人が三十人ほどになった。

毎日決まった人たちが必ず読みに来てくれるとなると、書く方もやはり気が入る。一話一話推敲にも気を遣うようになるし、客観的に自分の文章の「癖」も解ってきて、それを変えようと努めるようになる。

書いている小説は三十代の若者達の恋愛をテーマにし、舞台は日本、フランス、南米に設定した。濡れ場もかなりある。面白い事にそうしたラブシーンを書くと閲覧者数が一気に伸びる。毎日読んでくれている札幌の友人から電話で、「お前、官能小説家になったらどうだ」とさえ言われるほど、彼の弁を借りると、性的描写がリアルな作品らしい。
 
「冗談じゃない。あれは純文学なんだからさ」

そう言い返したのだが、電話の向こうの友人はただ笑っていた。まあ、自分でもこれは純文学とは呼べず、単なる娯楽ものだろうとは思う。
 
それにしても毎日原稿に向かうという生活を続けていると色々な事に気付かされる。ストーリーの大枠は決まっていても、各場面で登場人物がどんな言葉を使うかとか、どういった感情を抱き、それをどう表現するかなどは、本当に行き当たりばったりだ。

おのずと以前よりも人間観察をする時間が増えた。

職場で女性職員が眠そうな顔で欠伸をしているのを見ると、

「夕べは遅かったのかな?」

「子供がぐずったのだろうか、それともご主人と喧嘩でもして眠れなかったのだろうか」と想像を膨らます。

社長や他の社員の言動を観察しながら、彼らが今どんな気分でいるのかなどといった事を考える。だから自然と妄想癖が身についてしまった。

「妄想」というのは小説を書く上では欠かせない資源であり、その資源が深くて広いほど、書くものにも幅ができてくるのではないかとさえ思う。

妄想の海は途方もない。

五十も過ぎてまるで少年のようにあれこれ想像を膨らますことはちょっとおかしいかもしれないが、自分では随分と脳みそが活性化してきている様に感じている。

もうひとつ気が付いたことは、そうやって毎日小説を書いていると、夢にまでそれが出てくる。
登場人物がまるで現実の人間のように夢に現れ話しかけてきたりする。

朝五時に起きて書く。

仕事から戻り食事の後も原稿に向かう。

寝ていても夢でそれを見る。

まるでひとつの熱病に罹ったがごとくの生活である。

そんな折、大好きな作家のひとり、辻邦生氏の「言葉の箱」という本に、「ピアニストが一日平均五時間はピアノの練習をするように、物を書くのが好きで上達したいならば、彼らのように毎日文章を書く練習をしなさい」という言葉があった。

今はこれで良いのだと思った。

自分の細胞が生き生きと呼吸しているのを感じる。書くことが楽しくてしょうがない。


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<連載小説>楡の震え 81

飛行機が着陸態勢に入った。

さっきから俊一は胸の高鳴りを抑えきれずにいた。

フランソワがとってくれたビジネスクラスの座席は快適な眠りを提供してくれたが、それでも途中で何度か目が覚めた。

「もうヨーロッパに入ったかな?」と思い、目の前のモニターで飛行地図を見ると、まだロシアのバイカル湖の上空だったり、ウラル山脈の手前だったりした。そしてやっと飛行機はスカンジナビア上空に入り、徐々に高度を下げパリに近づいた。

着陸の心地よい振動が体に伝わった時、俊一はほっと溜息をつき目を閉じた。
恋い焦がれた家族の居る場所へ一万キロ以上の旅を終えてたどり着いた感慨が胸に迫る。

アライバルゲートを出て、レジーヌを抱いたサングラス姿のフランソワを見た時に、俊一は涙が出そうになった。
ゆっくりと近づき、彼女に声をかける。

「やあ。フランソワ・・・」

「お帰りなさい、シュン」

そう言って片手を差し出したフランソワと娘を俊一はしっかりと抱きしめた。

妻がキスを求めてくる。

俊一も心を躍らせてそれに応じる。

懐かしい彼女の唇の感触が蘇った。

レジーヌがきょとんとした顔で俊一を見つめている。その眼がなんとも愛らしい。

「レジーヌ」

俊一がフランソワの腕から娘を受け取り抱き上げると、レジーヌが転がるような笑い声をあげた。

「あなたの娘よ」

フランソワが言う。

見ると彼女のサングラスの下から一筋涙がこぼれているのが解った。

俊一は首を伸ばし、フランソワの唇にもう一度キスをした。

第二ターミナルの二階の出口で、ベンツを停めてジャン・ポールが待っていた。

「やあ、ジャン・ポール」

「ムッシュ、お帰りなさい」

俊一が差し出した右手を、彼は強く握り返した。

自分は今人生において一番の幸せを味わっているのかのしれないと俊一はベンツの後部座席で思った。レジーヌを抱いて横に座っているフランソワと、心から待ちわびていたパリ近郊の風景がそこにあった。

初めて入ったル・カンフ家の豪邸はまるで白い要塞の様であった。
守衛の居る門をくぐり、芝生の中を百メートルほど円を描くように舗装道路を進んでやっと玄関にたどり着く。
広大な芝生にはところどころ幾何学的に花壇が配置してあり、色とりどりの花々がそよ風に揺れていた。

門番から連絡を受けたのか、家の玄関の前に人が三人出てくるのが見えた。
車を降りた俊一たちを迎えたのは、フランソワの父、そしてアラン・デクアン夫婦であった。

秋空の下、俊一はルイ・ミッシェルと握手を交わした。
眩しそうに俊一を見つめ、父が云った。

「遠い所をありがとう。君には謝らなければならないことがいろいろある。それは今夜の食事の時に。とにかく疲れをとってくれたまえ」

「ありがとうございます。ムッシュ・ル・カンフ」

俊一はそう応え、傍らのアラン・デクアンを見た。

「ハロー、マイフレンド」

そう英語で言いながらアランは思い切り腕を広げた。

「よう! 殺し屋」

笑いながら声を掛け、俊一はその抱擁に応えた。

「プリーズやムトウは元気か?」

俊一の背中にまわされたアランの手がトントンと背中を打つ。

「ああ、元気だとも」

そう応えると背後のジャン・ポールがかすかな笑い声をあげた。

(つづく)

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<連載小説>楡の震え 80

会場には労働組合の幹部は勿論、非番の者まで全員が出て来ていた。
中には妻と子を連れて来ている者もいる。三千を超える目が、ステージ上のフランソワを見つめていた。

「愛する従業員の皆さん、ここではじめて皆さんにお目にかかれることを嬉しく思っています」

フランソワの美しい声がエコーを伴って会場に響いた。

「父の代からこの造船所で汗を流して働いてこられた皆さんに、今日はお話したいことがあって来ました」

フランソワは現在の造船不況が世界経済の低迷と密接につながっており、ここしばらくは改善の兆しが無い事。
その中で企業努力を重ねながらも、従業員の皆が不満に思うような給与体系に手をつけずに来たことに対して謝罪を述べた。

しかしそれを改善するには現在の機構に大ナタを振るう必要がある事。三千人の従業員をそのまま抱えていたら、この造船所はいずれ立いかなくなること。会社を存続させ、平均的な給与水準と定期昇給を維持して行くには、今後千人規模のリストラも余儀なくなることなどを説明した。

「リストラ」の単語がフランソワの口から出た途端、会場全体にブーイングの嵐が沸き起こった。
中には中指を立てて見せ、フランソワに向かって何かを怒鳴っている者も居る。

ざわめきが落ち着くのを待ってフランソワは再びマイクに向かって声を出した。

「しかしここで皆さんに提案があります」

原子力発電所建設の為に昔購入したフランス北岸の土地にリゾート施設を作る計画がある事、その新しい事業に携わりたい人材を募っており、この造船所から優先して希望者を募ってゆくプランを持っている事などを述べた。

そのプランを話し始めると、明らかに会場全体の空気が変化したのをステージの上のフランソワは察知した。

「もちろん、ずっと働いてこられたこの造船所と、マルセイユの街を離れるには相当な覚悟が必要な事だと私は理解しています。しかし皆さんにお願いしたいのは互助の精神です。世界の経済力学は日々変化しています。それに呼応し生き残って行くには、今までのような旧態依然とした価値観は通用しません。もしパイオニア精神溢れる方々がこの中にいらして、ル・カンフ財団の新しい試みに賛同し、北海沿岸に移っていただけるのでしたら、私ども財団側も、できるだけのサポートをいたします。この中から一千人の皆さんが新しい事業に移っていただけるのでしたら、この造船所に残った二千名の皆さんの十分なベースアップも実現できるのです。まもなく公式に早期退職と新規事業への募集をアナウンスすることになるでしょう。どうか皆さんの愛する同僚や仲間の為に、ひとつの大きな決断をしていただける方がひとりでも多く出て来られることを心待ちにしております。ル・カンフ財団は決して皆さんを路頭に迷わせるようなリストラはしません。そこを解っていただきたいと思います」

フランソワがスピーチを終了し、マイクの前から一歩さがった時に、会場に割れんばかりの拍手が起こった。従業員たちは皆感動していた。

続いてステージに上がった組合の代表が、静かな声で一言だけアナウンスをした。

「もう何も言う事はありません。マダム・ル・カンフ、素晴らしい提案を私たちは喜んでいます。これで私たちはストライキを中止します」

再び大きな拍手が会場いっぱいに鳴り響いた。

(つづく)

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<連載小説>楡の震え 79

自家用ジェット機の窓から、オルリー空港の滑走路が遠ざかって行く。

離陸の加速度に身を任せ、フランソワは目を閉じた。

体が相当疲れていた。

ル・カンフ財団の全権を父から譲られた後、日々の質が大きく変わった。

それまでは自分のホテルチェーンの経営だけを見ているだけで良かった。しかし今は違う。
マルセイユにある財団が経営する造船所で従業員のストライキが起こった。給与や待遇の改善が早急な課題である。
 
「十五分だけ眠らせて。打ち合せはその後で・・・」
 
テーブルを挟んだ向かいのシートで、財務諸表や他の書類をブリーフケースから取り出そうとした公認会計士のチェリー・ベルトワは、フランソワの疲労の色に気が付き、「ウィ、マダム」と返事をし鞄を閉じた。

それまで政治と原子力発電所の建設ばかりに意識を取られていた父親の経営の下、財団傘下の多くの企業では様々な所でほころびが出ていた。今日これから訪ねる造船所はまだましな方だ。フランス西岸のルアーブルにある製鉄所などは、原料の高値が続いた事と、現役員達の放漫経営が重なり、三年連続の赤字を計上している。なんとか手を打たねば財団の他の企業にも悪影響が及ぶ。

全体の舵取り役としての仕事は、ホテルチェーンの経営の時とは全く違うものであった。
それでも顧問としてフランソワを支援する優秀な会計士や弁護士の働きで、事態はいずれも納得の行く解決策を見る事ができた。その分、フランソワには物事の最終的な決済をする者としての大きな責任がその肩にのしかかっていた。
 
「この自家用飛行機も売り払わなければ・・・こんなのは経費の無駄よ・・・」
 
うつらうつらとした意識の中に聞こえてくるジェットエンジンの響きに、フランソワは心の中でひとりごちた。
 
夢の中で去来するのは娘レジーヌの姿であった。
あの滑らかで吸い付くような柔らかな肌と笑い声。俊一に似た涼しい目元と、自分と同じ柔らかなブロンドの髪の毛。娘の事を思うと日々の緊張感と疲れが癒された。

そしてあと一週間で最愛の夫が日本から戻って来てくれる。
あと一週間。フランソワは疲れた体を慰めるかのように心の中で自分にそう言い聞かせた。
 
マルセイユの空港に降りたつ数分前に、自家用ジェットは大きく左旋回をした。
その窓からはプロヴァンスの丘陵地帯がずっと遠くまで続いているのが見える。
フランソワはそれらの連なる丘の一点で俊一と出会った。
あの出会いがなければ今の自分は無かった。

運命というものに対する暖かな感謝の気持ちが心の中にふつふつと湧きあがって来る。自分の顔に静かな笑みが戻って来た。
 
「さあ、行きましょう」
 
同行の者たちに声を掛け、フランソワはタラップを降りた。

造船所には三千人を超える従業員が待ち受けていた。
続いている造船不況のさなか、その人件費は会社の経営をひっ迫させていたから、おいそれと給与の引き上げやその他待遇の改善に着手する事は難しい。本来であればそれとは逆にかなりのリストラをしなければいけないような状況である。

フランソワは会計士のチェリー・ベルトワにひとつのアイデアを提示した。
それは父のルイ・ミッシェルが原子力発電所の建設を断念したフランス北岸のクリエールとディエップの漁村のどちらかに大型のリゾート施設を建設し、この造船所で働く者の中から希望者を募ってそちらの方へ転職させる案であった。

転職を希望する者には財団が支度金を含めた一時的なボーナスを支給し、リゾート施設の建設と同時に住空間の整った社宅の整備も進め、転職者は優先して入居できるようにする。

三千人の従業員の定期的なベースアップをしてゆくと仮定して、そのまま十年間操業を続けていくのと、一時的に金はかかるが、この造船所から千人ほどの希望退職者を募って北岸に移住させるのと、長期的に見てどちらが会社にとって効果があるのか、チェリー・ベルトワは数分で計算した。

「マダムが仰るように、リゾート施設を作った方が長期的な視点からは大いに効果的です」

背広の胸ポケットにペンを戻し、チェリーが静かに応えた。

「そう? じゃあ、そういう方向で行きましょう」

造船所の大屋根の下に設置された仮設ステージに上がり、フランソワはマイクの前に立った。

(つづく)

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<連載小説>楡の震え 78

九月三十日。

フランソワに約束していた絵の最後の一枚が完成した。

美沢で百枚。その前にパリのアトリエで描いた絵を含めると、ちょうどル・カンフ財団が所有する百二十のホテルに飾る絵をすべて描き切った事になる。

絵筆を収めて、俊一は部屋の壁に飾ってあるいくつもの写真を眺めた。フランソワが都度送ってくる娘のレジーヌの写真は十枚を超えた。機嫌よく笑っている顔写真もあれば、裸でベッドの上にうつぶせになって顔を上げ、カメラをじっと見つめているものもある。それらの写真はすべてフランソワの実家、つまり父親のルイ・ミッシェルが去年まで地下室に潜んで暮らしていたあの豪邸で撮影されたものばかりであった。

家の庭の芝生の上で、護衛のジャン・ポールがレジーヌを抱いている写真もあるが、その写真を見ていつも俊一はクスっと笑ってしまうのだった。彼の腕の中で仰向けに抱かれたレジーヌが、ジャン・ポールのサングラスに手を伸ばし、それをはぎとろうとしている写真である。焦ったようなジャンの表情が可笑しくてたまらない。それを撮ったのはフランソワだったが、見事なシャッターさばきであった。

もう一枚、俊一の心に深く迫る写真があった。それはフランソワの父親、ルイ・ミッシェルが嬉しそうに顔を崩し、レジーヌを自分の顔の前に抱き上げている写真である。

かたくなだったあの父親が、孫をそれほどまでに嬉しそうに抱き上げている写真を見て俊一は意外に思った。目尻にしわを刻んで笑うその老人の横顔は、明らかにすべてから身を引き、心底自由になった安堵感と、孫と娘に対する愛情を表していた。

「父はあなたに逢いたがっているわ。今までの事を詫びたいって」

その写真が送られてきた時、フランソワが電話で俊一にそう報告した。自分が殺し屋を送って俊一を殺害しようとした行為をその老人は強く後悔しているという。その企みは失敗に終わったが、フランソワの機転が無ければ、今頃俊一はこの世に存在していない。それは結局は愛する孫娘から父親を奪う事にもなりかねなかった。

プロヴァンスから美沢に派遣された殺し屋、アラン・デクアンはその後ル・カンフ財団に雇用され、主にル・カンフ親子の私邸の警護に当たっていた。日中仕事に出ているフランソワに代わって、アランの妻が家に来てレジーヌの乳母を務めている。

キャンバスの隣の簡易机の上にはエール・フランスの航空券があった。
フランソワが手配し、送ってくれたものだ。一週間後、俊一はパリへ飛ぶ。一年と九か月ぶりの渡仏である。暗澹とした月日が流れ去り、目の前にあるのは陽光に満ち溢れた新しい日々である。本来であれば秋の収穫たけなわの時期だが、事情を熟知していた友人の武藤も、俊一の人生の新しい門出を心から喜び、フランスへ行っている間の俊一の畑の世話は全部任せておけと言ってくれていた。

俊一はすべてに感謝していた。

武藤や友人達、そしてこの美沢に住んでいる事も、フランソワと出会って愛し合い、子供ができ、家族ができた事も、素直な感謝の気持ちに満たされ、美しく青く、そして高い美沢の空を眺めた。

大空の中を、一筋北西に向かって伸びる飛行機雲が見えた。
その延長線にはヨーロッパ、そして愛してやまないフランスがあった。

(つづく)

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<連載小説>楡の震え 77


例年になく雪の多い冬であった。
 
一年前とは違い、クリスマスが来ても大晦日を迎えても、俊一は美沢を出ることはなかった。
年が明け、一月三日の日中に、友人の武藤の家で農業ヘルパーや他の友人たちが集まり、新年会が開かれたのに参加した以外はずっと自宅で絵の制作を続けていた。

無精ひげも剃らずにいたから、俊一のこめかみから顎にかけて、見事な髭が出来上がった。
 
「お前、その方が貫録があっていいぞ」
 
一度養豚の打ち合せに来た武藤がそう言い残して帰って行った。

絵画に没頭する毎日ではあったが、日中の決まった時間と、夜遅く床に入る前に俊一はテレビのスイッチを入れる。フランス国営放送と、その他の欧米のニュースを見てから眠りに落ちるのが日課になった。

テレビを消した後はいつもの美沢のしんとした静けさが俊一を包んだ。
毎晩布団の中には猫のガートの温もりがあり、穏やかに喉を鳴らす音だけが聞こえていた。

フランソワと娘のレジーヌが自分の傍にいないことは寂しい事であった。
しかし俊一は心の中にひとつの充実感を感じていた。気ままに生きてきた自分の若さの時代が過ぎ、ひとつの目標ができた事。それは愛すべき彼女らといつか一緒に暮らすことであった。

どんな形でそれが叶うのかは判然としない。
自分がフランスに移住することになるのか、あるいは伴侶と娘が日本に来てこの美沢で暮らすことになるのか。
とにかく自分には家族ができ、三人が共に暮らせる時が来ることを心待ちにしている。そのために絵を描く。
キャンバスの向こうにある、三人の明るい未来を見つめながら、一心に今やらなければならない事をする。
それは絵を描き続けることであった。

 
春が過ぎ、夏が訪れた。
 
武藤の家の農作業の手伝いも、自分の畑の管理も俊一は黙々とこなした。七月の末、麦の刈り入れが終わり、武藤の家で慰労会が行われ参加していた時に、ポケットの中のアイフォンが鳴った。いつもより数時間早いフランソワからの着信に俊一は「おや?」と思ったが、その理由はフランソワの喜びに満ちた声を聴いて納得できた。
 
「シュン、聞いて。父が政界を引退して、ル・カンフ財団の全権を私に譲るって電話してきたの!」
 
「そうか。それはすごい事じゃないか!」
 
「これで晴れて貴方と結婚できる。貴方に絵のお金も払う事ができるのよ」
 
「お金など要らないけれど、フランソワ、それはいつから?」
 
「週明けに正式に登記して、メディアにも公表するそうよ。父は完全に引退するって言っているの」
 
「そうか。お父さんは何故そんな結論に至ったんだい?」
 
「よくわからないけれど、シュン、私、今すごく幸せよ。シュンは?」
 
「君が幸せなら僕だって幸せさ」
 
「ありがとう。シュン、これでやっと未来が見えて来たわね」
 
そう言ってフランソワは電話を切った。
 
 
「フランソワさん、なんだって?」
 
武藤がほろ酔いで聞いて来た。
 
「彼女の父親が財団の全権を彼女に譲り、自分は政治からも企業家からも引退するって言っているらしいんです」
 
「そりゃあすごいことじゃないか! 俊、お前、フランスの大企業の会長の旦那になるのか?」
 
武藤がそう言うと、同じく酔って赤い顔をした川村が「いよっ! 玉の輿!」と叫んだ。

一同に笑いが起こったが、俊一は笑う事ができなかった。
 
心の中に一つの不安があった。
 
それは以前から気になっている事だった。
 
随分前に由梨絵にも話したように、どんなに強く念じても、俊一とフランソワ、そしてレジーヌが共に暮らしている姿がはっきりとイメージできない事であった。

三人の未来を目を閉じてイメージしようとしても、自分の願いとは裏腹に、それはあくまでも漠然としていてはっきりと心の中で実像化できない。それが何故なのか、俊一は理由が解らず、喜色に満ちたフランソワの声を電話で聞いた後でさえ、実感が湧かない事に胸が痛むような不安を覚えるのであった。

(つづく)

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<連載小説>楡の震え 76

冬。
 
昨夜からの低気圧の停滞が、美沢にも雪をもたらした。

広大な畑が一面の雪原に変わり、降り続く雪のせいか、普段から静かな村は余計にひっそりと無音の空間の中にあった。

少しだけ傾いた木造の古い家の中ではシュウシュウっとストーブの上のやかんが湯気を放ち、その傍で一匹の猫が寝ている。

ふすまを開け放ち、茶の間から続いている隣の部屋で、若い画家は無心にキャンバスに向かっていた。

その家でひとつだけいつもと違うのは、窓辺に真新しいテレビが置かれ、ところどころ修復が必要なくらい傷んだ屋根の軒下に、小さなパラボラアンテナが設置されていることだった。

先日北見へ行った際に、俊一は四十インチのテレビを購入した。別に民放の地デジの番組を見るためではない。CNNやBBC、そしてフランス国営テレビの衛星放送を見るためである。

一日の大半を過ごすアトリエの壁には、新たに二枚の写真が飾られていた。一枚はフランソワが生まれたばかりの女児を抱いて微笑む写真。もう一枚はこれも生まれたばかりの双子の男の赤ちゃんを抱きながら、夫の吉本直人と一緒に映る由梨絵の写真だった。

俊一とフランソワは自分たちの娘にレジーヌと名付けた。

写真の中のレジーヌは目を閉じているのでよく解らなかったが、フランソワは、娘の目元が俊一にそっくりだと電話で話していた。今すぐにでも飛んでいきたい衝動に駆られることが何度もあったが、俊一はそれを抑えていたし、フランソワも今はそれを望んではいなかった。俊一が百枚の絵を描き終え、フランソワも落ち着いて暮らせるような状態に戻るまでは、お互いに会うのを我慢しようと決めたのだ。

テレビを購入したのは、自分の娘の誕生がきっかけだった。こだわって持つことが無かった物を購入したのは、自分の伴侶と娘が住むフランス、そしてヨーロッパの情勢を父親として、そして夫としていつも身近に視て知っておく必要があると考えたからだ。

描き続けている絵は五十二枚目になっていた。
予想していた以上のピッチで描き進んできたのは、やはり愛する伴侶と一日も早く逢いたいと思う気持ちがそうさせたのかもしれない。しかし決していい加減な気持ちでプロヴァンスの絵を描いているわけではない。フランソワが言っていた、「フランス人にしか解らない光」というものが俊一にはどんな色彩なのかいまだに解らなかったが、自分なりに感じたその風景の光彩をできるだけキャンバスに表現してきたつもりであった。

フランソワと俊一は一日に最低一回は電話をしあった。請求される電話代には驚いたが、今の所それは俊一にとっても一つのライフラインのようなものであった。

フランソワの父、ルイ・ミッシェル・ル・カンフが原子力発電所の建設から撤退する事を公表したのは、ちょうどフランソワに陣痛が来て、彼女がジャン・ポールに付き添われ病院へ走った日であった。翌日の女子出産と、確執の末に一大事業を断念したその父親と娘に対して、フランスのマスコミは一斉に飛びついた。もちろんフランソワが産んだ女の子の父親は誰なのか、世間の関心は再びそこに戻ってきていた。

北海道の片田舎にある離農跡の古い家の中でも、フランス国営テレビが報道する父親と娘の顔はしょっしゅうそのデジタルスクリーン上に映し出されていたから、「お互いに落ち着くまでは・・・」という二人で約束した待ち時間は、いったいどれほど続くものなのか、フランソワにも、そしてキャンバスに向かう俊一自身にも解らなかった。
 

しかし確固としたものが俊一の中にはあった。それは自分には家族ができたという感慨であり、遠いヨーロッパで暮らすフランソワとレジーヌが居るからこそ、今こうして自分も絵に没頭していられることができるのだという事だった。
 
(つづく)


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プロフィール

高島悠介

Author:高島悠介
男性。北海道在住。団塊世代後の生まれ。

作者名 高島悠介はペンネーム

五十路を迎え、書きたいことが募ってまいりました。ゆっくりと綴って行くつもりです。

ブログの作品にはまだ書きかけ、未完のものも有ります。あしからず。






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