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<エッセイ>原風景・水平線の利尻岳

誰にでも自分の人生において忘れられない景色、所謂「原風景」というものが存在するのなら、僕にとってのそれは北海道の北西海上に浮かぶ山、利尻岳である。

六歳から九歳にかけて、天塩郡遠別町に居住していたのだが、家の近くの砂浜からも、丘の上にあった小学校の木造校舎の窓からも、水平線の向こうにぽっかりと、底辺の広い見事な三角錐の独立峰が見えていた。

晩秋から春にかけては、真っ白な山容が青い海と見事なコントラストを醸し出し、夏には墨絵のような青いシルエットとなって、水平線から少しだけ宙に浮かんで見えていたのである。

転校生ではありながらも、仲の良い友達はすぐにできた。まだまだ幼く、首も細く華奢な身体つきをしていたであろう僕の遠別町での三年間には、未だに忘れられない出来事が複数ある。そしてその思い出の景色には、どこか演劇の舞台のホリゾントに固定された絵の如く、いつも利尻岳が存在していたのだ。

遠別小学校に転校してすぐに仲良くなったのは、野尻高志君と一戸俊一君であった。高志君の父親は遠別町の漁師で、俊一君は営林署職員の一人息子だった。

ある風の強い日、三人で学校からの坂道を歩いていると、道路脇の多くの民家という民家から続々と女や年寄り達が出てきて、皆蒼ざめた顔をして港の方向へ歩いて行くのを見た。

「なんだべ。行ってみるか」

僕たち三人は興味津々で大人たちの後をついて行った。港に着くと、消防車やパトカー、救急車が数台停まっており、岸壁は多くの人々でごった返していた。皆で沖を見つめながら不安げに何か話している。中には岸壁に膝を落とし、「お父さあん。お父さあん」と泣き叫んでいる女性もいる。僕は自分が来てはいけない場所に来てしまったような恐怖感を覚え、友人の顔を見ると高志君も俊一君も一様に蒼ざめた表情をしていた。その時だった。

「高志!」

横の方から高志君の名を呼び近寄って来たエプロン姿の女性がいた。高志君の母親だった。

「あんた、叔父さんの船、転覆したとさ!」

「ええ?」
 
母親の言葉に高志君はみるみる蒼白になり、直後にお母さんのお腹に顔を付けて泣き始めた。お母さんは高志君の頭を抱きしめ、「大丈夫だ、大丈夫だよきっと」と声を掛けるが、その瞳にも涙が溢れていた。

転覆事故は高志君の叔父が所有する漁船で、スケソウダラを獲っている最中に強風と大波を受けて転覆したもので、乗組員四人全員が帰らぬ人となった。人々の不安気な様子と、びゅうびゅうと吹く風、白波を立ててうねる海の向こうに、まだ多くの雪を残した利尻岳の姿がくっきりと見えた。大好きだった叔父を失くした高志君は、その後三、四日学校を休んだ。
 
性の目覚めの予兆、あるいは蕾みたいなものを経験したのも、水平線に蒼い三角錐の利尻岳が浮かぶ夏のただ中であった。
僕たち三人は、級友の千佳ちゃん、そして加代ちゃんと共に五人で砂浜で遊んでいた。大きな潮だまりの向こうに、中洲の様に別の砂浜が露出しており、そこに二人の男性の姿が見え、さっきから「ドーン、ドーン」と空に向かってライフルを撃っている。

「かっこいい。行ってみるか」と俊一君が言い、「怖いよ、やめよう」という女の子たちの言葉も聞かずに僕たちはその潮だまりを渡り始めた。深さはたぶん六十センチ程だったと思うが、小学二年生の僕達には結構な深さだ。僕らは半ズボンをたくし上げ、水圧を掻き分けて前に進んだ。その時、仕方なくついてきた千佳ちゃんと加代ちゃんも、スカートをたくし上げ、中の下着さえも鷲摑みにし、恐る恐る潮だまりを進んでいる。丁度水面がその股間の真下にあり、手で釣り上げられた下着の脇から、千佳ちゃんと加代ちゃんのふっくらとした股間の丘陵が目に飛び込んできたのだった。

一瞬で僕は自分の身体の異変に気がついた。

おちんちんが固く大きくなっていたのだ。それは生まれて初めての勃起の体験であった。自分の身体だけに起こったであろう異変を、その日僕はひた隠しにした。

砂浜についた僕達にはお構いなく、大人の男性二人は空に向かってライフルを撃っていた。ドーンという音の度に薬莢が砂の上に落ちる。俊一君がその薬莢を拾い上げようとしたが、男性の一人が、「すぐに触ったら火傷すっぞ!」と言った。銃を撃つ男達のすぐそばに子供が五人いる。今ならすぐに警察沙汰だが、時代はおおらかであった。冷めてから拾い上げた薬莢は、鼻をつく火薬の匂いがした。

翌日、三人で学校へ向かう坂道を歩いていた時、高志君がぽつりと言った。

「俺さあ、昨日千佳ちゃんと加代ちゃんのおまんちょ見た時、ちんちんがでかくなってびっくりしたさあ」
 
僕は驚いて高志君の顔を見た。俊一君も同じだった。そして僕と俊一君は同時に声を上げた。

「俺も!」
 
三人は坂の途中で笑い転げた。自分たちの身体に起こった変化が、すごく不思議で、そしてあまりにも滑稽だったのだろう。
 
他にも利尻岳を背景にした舞台上で見たものに、高校生の決闘がある。学生服を着た高校生男子二人が殴り合い、蹴り合う喧嘩を目撃したのだ。「パチン」という顔を殴る音、うずくまった相手の顔面を蹴り上げ、「グワッ」と唸り声をあげてもんどり打つその顔から鼻血が飛び散る様を、僕たち三人は膝を抱えて震えながら見ていた。ただ不思議だったのは、顔面血だらけになったその二人が、最後には砂浜に座り込み、お互いに肩に腕をまわし、一緒に海を眺めている後姿であった。今思えばまるで三文青春小説の様でもあるが、大人の世界が怖く、同時にすごく不可解に思えたのである。

一番美しい思い出は、三年生が終わる頃、北見の学校への転校が決まった僕の為に、担任の鈴木先生がクラス全員で砂浜に出て、僕の為に綺麗な石や貝殻を集めてあげようという企画をしてくれた事だった。

鈴木先生は、たぶん二十四、五ではなかったろうか、大変美しい女性だった。生徒が砂浜で石や貝殻を集めていた時、先生は大きな流木に腰を掛け、顔をスカーフで囲み、海風にその長い髪をゆらゆらと揺らしながら、ニコニコと皆を眺めていた。僕も必死で綺麗な石を探した。千佳ちゃんが見つけた石はメノウだった。他にもたくさん石や貝殻が集まり、先生が用意してきた四角い缶にびっしりと入った。それらは宝石みたいに見えた。丁度夕陽が差し、鈴木先生の顔も、皆の顔も、そしてまだ雪が沢山残る水平線の利尻岳も見事なオレンジ色に染まっていた。
 
五十数年が経ち、記憶も薄れ、石や貝殻が詰まったあのブリキの缶もどこかに行ってしまった。人生の折り返し地点はとうに過ぎ、初老の年代に入ってしまった今、あの遠別での出来事を何故こんなに新鮮に思い出すのだろう。ひょっとしてあの風景が僕を呼んでいるのだろうか。単なるノスタルジーではない何か不思議な引力を感じている。これが「老いる」という事なのかは分からないが、今年の夏休みには、必ずあの砂浜と水平線の利尻岳に会いに行こうと考えている。


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<エッセイ> あたし

どうしても尋ねずにはいられなくなった。

「Yさんはご自分の事を『わたし』じゃなくって『あたし』って呼んでますけど、それって昔からなんですか?」

「え?」
 
ブラインドを開けた教室の大窓を背にしているから、眩しい日差しがYさんの肩を背後から照らしている。彼女はこちらを見つめ、応えに窮している様子だった。
 
Yさんは二年前から私の教室で英語を勉強している新得町在住の女性だ。長野オリンピックに女子アイスホッケーの日本代表選手として出た方で、インターネットで検索すると、国外で行われた試合でカナダの選手に突進し、跳ね飛ばした相手と共にリンク上に倒れ込む勇猛果敢な写真が出ている。

身長は160センチだが、当時は体重が70キロもあり、太腿は講師の私の二倍の太さがあったのだという。今はすっきりと痩せられ、体重は40キロ台後半だそうだ。手脚が長く均整の取れた身体つきをされているが、その手と指は若い頃の激しい運動のせいか、がっしりと逞しい。

目がとりわけ大きく澄んでいて、少しそばかすは有りながらも、とても美しい目鼻立ちをしておられる。しかし彼女は一切化粧をしない。物を極力所有せずシンプルに生活しておられるミニマリストでもある。授業に来られる時はいつもスッピンで、お決まりのTシャツやフリース、二、三本しか持っていないと思われるジーンズだけ、といったいで立ちである。

とある休日に英語検定の問題集を届けに新得のご自宅にお邪魔したことがあるのだが、「お茶でもどうぞ」と勧められ、ご主人へのご挨拶もかねて上がらせていただいた2LDKのアパートの部屋には、驚くほど物がない。Yさんご自身が手作りされたカウンターテーブルとダイニングチェア、そしてテレビ、CDプレーヤーだけがリビングに置いてあるだけでとてもガランとしている。ひとつだけキャンプ用の椅子が置いてあるのだが、それは数年前に世を去った愛犬「クーさん」専用の椅子で、Yさんもご主人もそこに座る事はないという。ものが無いからとても広く感じるそのお部屋には見事に大きな窓があり、そこからたっぷりと日光が差し込んでいた。

老健施設の調理長を務めておられるご主人との間には子供はおらず、現在44歳。毎朝3時に帯広に向かって出勤するご主人に合わせてご自身も起床し、夫を送り出した後は午前5時から清水町の運送会社で荷物の仕分け業務をこなしておられる。そんなことからいつも夕方7時には床に就く毎日だという。男勝りの彼女は会社の作業員の中でもかなり頼られる存在のようで、ついついご自分の担当以外の仕事もカバーしてしまうのだそうだ。

もし彼女がきちんと化粧し、身なりもそれなりに女性っぽく整えれば、恐らくかなり目を引く美しい女性になるのではと思うが、そんなことは私の方から話すこともない。登山や森林浴が大好きな人でもあり、特に動植物や昆虫の知識が物凄く豊富で、そんな話をすると実に楽しそうに、様々な事を教えてくれる。

毎回真面目に授業を受けられ、英検二級に合格した後は、平均で一年半か二年はかかる準一級の試験にも、猛勉強の末、驚くことになんと三か月で合格を果たした。それは私が教えて来た受講生の中では最短記録である。元々は理科系の大学生で獣医師を目指しておられた頭脳の明晰さも手伝っていたのだろうが、準一級の合格を知った時には二人で声を上げて喜び、握手をした。

そんな彼女との会話の積み重ねの中で、いつも不思議だった「あたし」の自称。思い切って尋ねたのには理由があった。その授業の日の朝、彼女から珍しくラインのメッセージが届き、『先生すみません、あたし今日のレッスン、十五分くらい遅れます』と書いてあったのだ。要するに彼女は会話だけではなく、物を書くときにも「あたし」を使っていたのを知ったのである。

私の問いにYさんは少し困惑したような顔を見せたが、やがてポツポツと説明してくれた。

「あたし…、若い頃から自分のこと、あたしって呼んでるんです」

「どうして? 何かきっかけがあったんですか?」

こちらの問いに彼女は恥ずかしそうに応えた。

「『私』って、できる大人が使う言葉のような気がして。未熟者のあたしは昔から『あたし』のままなんです。『私』って『わたくし』とも呼べるし、カッコいいじゃないですか。でもそれって、なんだか社会的な立場がしっかりした人だけが使う言葉みたいに思うんですよね。昔から自分の事を『私』って呼べるようになりたいとは思っては来たんですけど…、中身が幼稚でおバカなままなので、未だに使えないでいるんです」

 自称の使い方にそんな深層心理があったとは予想外だった。確かにこの自分も時と場合に応じて「私」と「僕」、そして「俺」を使い分けてはいる。公の場では「私」、普通は「僕」、そして妻や距離のごく近い友人には「俺」を使う。でもそれはあくまでもTPOに沿ったものであり、Yさんのような心理の裏付けなどは存在しない。

「Yさんは未熟でもおバカでもないじゃないですか」

 そう言うと彼女は笑いながら「未熟でおバカですよ、あたしなんて」と返し、こう続けた。

「化粧もお洒落も全く興味がないし、昔から変人変人って呼ばれてきたんです。時々札幌の実家に帰ると未だに祖母や母親から『あんた、何なのそれ、なんとかしなさい』って言われて、甥っ子たちもあたしのこと馬鹿にするんですよ、男みたいだって」
「化粧とかお洒落とかしてみたくはないんですか?」

「嫌いなんです。化粧って本来自然のものではないじゃないですか。そしてあたし、これが一番楽だし…。一生化粧とかしないと思います。人や社会に合わせる事をするとすごく疲れちゃうし、本当にあたし、これでいいんです」

きっぱりとしたその言葉を聞き、感じたことがある。彼女がご自身の事を『しっかりと社会的な立場を持った成熟した大人じゃない』と言う、一見劣等感を伴った様な感情の発露は、翻せば、『これからも私は世間に迎合せずに自分の好きなように生きてゆく』という内心の宣言なのではないか。自らを「わたし」ではなく「あたし」と呼ぶのは、きっと私たち以上に自己を確立しておられるからなのだろう。そして自分たちを『普通』と思っている私たち一般人とYさんとの間に、Yさん自身が何らかの一線を引いておられる事の証なのかもしれない。

 先日、所用で札幌へ行くために早朝に家を出て清水町から高速に乗った。ちょうど朝陽が東から昇り始めた頃、清水町内の国道274号線沿いにある、Yさんが勤務する運送会社の前を通った。そして国道から見えるそのヤードに、白いヘルメット姿のYさんの姿を見た。トラックの荷台から降ろされた、荷物がぎっしりと詰まった大きなコンテナをしっかりと摑み、その長い両脚で踏ん張りながら身体を斜めにして押している姿だった。ほんの数秒間のYさんの姿だったが、早朝の光の中で、それがなんだかとても頼もしく、しなやかで、そして輝いて見えたのだった。

「あたし、頑張れ!」
 
車の中で思わず声が出た。

<エッセイ> 鬼束ちひろ

日本の歌謡曲や現代でいうところの「J―POP」と呼ばれるものを聴かなくなったのは20代後半からだったと思う。せいぜい高校・大学時代に流行っていたフォークソングの吉田拓郎、井上陽水あたりまでで、その後はぴたりと興味が止まった。洋楽もサイモンとガーファンクルやビリー・ジョエルなどは今でも歌詞を全て暗記しているくらい聴き込んだが、平成になってからはクラシック音楽に興味がシフトして行った。

その様な理由で、今の4-50代の友人たちがカラオケで歌う、安室奈美恵、Bz、ミスターチルドレン、浜崎あゆみなどというアーティストの名前を聞いてもどんな曲を歌っていたのかさえ分からない。実際に曲を聞いても、「へえ、こんな曲が流行っていたのか」と思うくらい疎いのだ。

尚更、18歳になった娘が聴いているエグザイル系のグループが歌うアップテンポな曲を聞いても、歌詞も聞き取れず、何を歌っているのか、彼らの音と踊りの何が娘を熱狂させるのかも分からない。まあ、分からないものを無理に分ろうとして、娘の趣味に合わせることもない、と今はもう諦めてはいる。

そんな私でも、時々テレビやラジオから流れてくる日本の歌手達の歌にふと聞き耳を立てることが無かったわけではない。演歌のジャンルでも好きな曲もあるし、ポップスでは平原綾香の「ジュピター」などは名曲だと思う。アンジェラ・アキも好きだ。しかし彼女らのアルバムを購入するまでには至らない。代表曲ひとつかふたつをスマホに入れて持ち歩いているだけであった。

しかしここに来て一人だけ衝撃的に私を捕らえて離さない歌手が現れた。鬼束ちひろである。
実際にはその鬼束ちひろでさえ、デビューは2000年なのだから、『何を今更』と思われても致し方ない。20年前のデビュー曲を今になって真剣に繰り返し聴いている体たらくなのではあるが、大ヒットした『月光』を初めて聞いた時に、その歌詞の凄さに釘付けになったのだった。

――I am God's child (私は神の子供)、この腐敗した世界に落とされた。
How do I live on such a field (どうやってこんな所で生きて行くの)?、こんなものの為に生まれたんじゃない――

と始まるその歌詞はデビュー当時二十歳だったという鬼束自身の手によるものだが、それは決して若い女の子が歌うふわふわと色めいた恋愛ものなのではなく、様々なものに絶望した一人の人間としての吐露なのである。

――効かない薬ばかり転がってるけど、ここに声もないのにいったい何を信じれば?
不愉快に冷たい壁とか、次はどれに弱さを許す?――

同じ「月光」の中の歌詞の一部なのだが、この「効かない薬ばかり」とか、「不愉快に冷たい壁」に続く「次はどれに弱さを許す」などという表現は孤独と無力感に苛まれながらも、歯を食いしばって社会に立つ人間にしか思いつかない表現ではないだろうか。

彼女はもっぱら詩も曲も自らが作る。そしてその歌詞の殆どに必ず心に刺さるフレーズが存在する。還暦過ぎの男が20歳そこそこの女性の作る詩にどきりとさせられるのだ。 

その歌詞の素晴らしさこそが鬼束の真骨頂であり、最近見たテレビのドキュメンタリーでは、彼女の歌詞に救われたという引きこもりの青年や、社会に馴染めず苦しむ若い女性が思いを語っていた。しかもその救われ方は、「鼓舞されたり励まされたりする」のではなく「一緒に底まで突き落とされてから暖かく包まれるような感覚」なのだと、ある女性が話していた。

そんなことから、鬼束ちひろとはどんな女性なのだろうと興味がわき、20年前にタモリの番組に彼女が出演した動画を見たのだが、予想とは裏腹に、本人はどこにでもいそうな女の子であった。タモリの言う事にニコニコ笑いながら、「ウン、ウン」と笑顔で応え、まったく敬語を使わずに、タモリから「タメ口はやめなさいよ」と笑いながら諭されるほどであった。

生活はまったく昼夜逆転であり、夕方の5時頃に起床し、翌朝の7時か8時に床に就く。作詞作曲は夜中の2時頃がピークで、子供の頃から持っている電子ピアノを床に置いて作曲するのだという。「じゃあ、こんな昼間の生番組に出て、眠くないの?」と聞かれ、「ウン、目がしばしばするー」と応えて会場の笑いを誘う。

こんな子に何故あんな歌詞が書けたのだろうか…と思っていると、タモリが同じような事を聞いた。すると鬼束はこう答えた。
「なんだか歌詞が降って来るっていうか、作ってみて、え? 私こんなこと考えてたんだって再確認することが多いんだよねえ」
 
別の番組では鬼束のプロデューサーがその作品創りの速度に対して驚嘆するべきものだといい、「彼女は天才なのだと思う」と語っていた。
 
芸能活動でも様々な紆余曲折を経て、鬼束は家庭を持ち四十歳の女性になった。
途中でパンクロック風の音楽を作り、恐ろしいほどの厚化粧でまったく違った人物になってしまったような時期もあったが、現在はまた以前のようにわずか数単語で聴く者の心を抉じ開ける深淵な歌詞を書き、あの滑らかで光沢を持つ、ベルベットのような声で歌を届けてくれている。
 
しばらくクラシックのチェロばかりを聴いていた書斎には、今はもっぱら鬼束ちひろが流れている。聴けば聴くほど好きになって行く。そして今更になって、言葉というものの不思議さ、深さ、そして楽しさを教えてもらっているような気がするのである。

鬼束ちひろ

<エッセイ>夏の夜にため息ふたつ

戦後74年が経過し、日本人は何か変わったのだろうか、と考えている。
中学・高校時代に歴史の教科書に載っていた第二次世界大戦と日本軍の真珠湾攻撃、そして広島・長崎への原爆投下という出来事は、いくら写真や映像などの資料を見せられても、僕にとっては随分と過去の話。想像はできるが、皮膚感覚を伴わない遠い昔の出来事でしかなかった。

「戦争を知らない子供達」という歌が流行り、僕は近・現代史に思いを向けることも無く、ファッションやアメリカからやってくる音楽、漫画やテレビのコメディ、アイドルや可愛いクラスメートの女の子の事ばかりを考えて過ごしていたような気がする。
学校の教科書には、満州事変とそこから始まる戦争への道、ポツダム宣言の受諾などが時系列で記載されていたが、実はそれらも僕には「史実」というよりも、定期テストの点数を稼ぐための「暗記もの」にしか過ぎなかった。

今更悔やんでも仕方がないが、身の回りには、かの戦争についての夥しい数の書籍・資料が存在し、そして学生時代には何よりも実際に戦争を体験した人々がまだ数多く存命されていたはずである。何故そうした書物を手に取ったり、体験者の話を積極的に聴いたりしなかったのだろうと思うのだ。

この夏、笠原十九司の「日本軍の治安戦―日中戦争の実相」を読んだ。随分と赤裸々な内容に衝撃を受けた。本書は戦後短歌の代表的歌人であった宮柊二の「山西省」という歌集の中の、ある一句をプロローグとしている。

―ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば 声も立てなくくづをれて伏す―

夜間に中国軍陣中に潜入し、遭遇した中国兵を刺殺した際の歌である。―敵兵を抱え込んで自分の体重をかけて帯剣を突き刺し、腸をえぐるようにして切断、相手は叫び声を上げる間もなく崩れる様に死んだ。即死である。(本書より抜粋)―宮柊二は歌人でもあり、そして殺人のプロでもあったのだ。

本の出だしからこうだから、こちらも構えて読まなければいけない。要するに笠原の多くの取材で裏付けられた史実―日本軍はそこで何をしてきたのか―という事が事細かに書かれている。抗日の動きがある村落へ赴き、治安戦という名のもとに行く先々で強奪を繰り返し、女性を強姦・輪姦し、最後には村人もろとも皆殺しにする。

『まさか! 皇軍たる日本兵がそんなことをするわけがない!』
『日本は中国や朝鮮を欧米列強の脅威から解放してやったのだ』
『我々の祖父・曾祖父達がそんなことをしたなんて有り得ないだろう』

これらはほぼ戦後世代、とりわけ歴史修正主義者や保守系右派の反論だが、事実、当時の中国の国民は、「皇軍」と自称する日本軍の事を、イナゴを表す同じ音読みの「蝗軍」と呼んでいた。全てを食い尽くすからである。

本書を読んでいた盆休みに、NHKは見事なドキュメンタリーを立て続けに放送した。
『かくて自由は死せり―ある新聞と戦争への道』『全貌・二二六事件』『激闘ガダルカナル―悲劇の指揮官』そして『昭和天皇は何を語ったのか』。すべてNHKの取材力・検証力の粋を集めたドキュメンタリーだった。
 
本を読み進め、そしてそれらのドキュメンタリーを観ている内にひとつはっきりと僕の中に定着したのは、天皇とそれを取り巻く政界、そして軍部という三者それぞれの力と力のせめぎ合いだった。

日本には、明治以降、大正デモクラシーを経て戦前、戦中、そして戦後の時の流れの中で、天皇を頂点とした国粋主義を目指す勢力と、西欧から学んだ民主主義・自由主義を目指す勢力がせめぎ合いをして来たことが分かる。そして驚くことに、それは現在でも続いている。

300万人以上が命を落とし、二度も原子爆弾を落とされたこの国は、「もう二度と戦争はしない」と誓ったはずであり、僕はそれを当然の帰結と考え、永遠とは行かないにせよ、少なくとも自分が生きている間には戦争など絶対に起こり得ないと思っているし、信じてもいる。しかし昨今の国内の世論を見ていると、どうしても不安になることが多い。

今問題となっている日韓関係もそうだ。ほぼすべてのメディアが韓国を叩き、国民の中で嫌韓ムード高まっている様を見ると、『ああ、こういう雰囲気だったのか』と戦前の日本の空気が容易に想像できる。歴史的に切っても切れない深く長い関係にある隣国を、その国の指導者がいとも簡単に「信頼がおけない国」「嘘をつく国」と言い合い、世論もそれに同調する。

日本は本当に永遠に戦争することを放棄した国で居続けることができるのだろうか。それは国民である私たち次第なのだとも思う。騙されない、流されない、立ち止まって考える、常に過去を反省する、そして必要な時には抗う事もしなければ、真の平和というものは持続できないのだと思う。

そんな思いで我家に目を戻せば、長男が結婚し、次男が大学院生となり、茶の間のテレビは高校生の娘専用のものとなって久しい。

恋愛ドラマ、大好きなエグザイル系グループの歌番組、芸人がワイワイと奇声を発するバラエティーショーを毎日のように録画し、夕食後お菓子をぼりぼりと食べながらそれらを視ている娘。ニュースやドキュメンタリーは一切見ない。読書にも全く興味が無い。

「そんなものばかり見ていないでたまには本でも読んだらどうだ? 頭がピーマンみたいに中身がスカスカになるぞ」

そう声を掛けても迷惑そうな顔で一瞥し、返事もしない。その娘の姿は僕の青春時代の姿そのものを投影している。
 
自室に戻り「ふう」とため息をつく。
 
暗闇で瞬時に人の息の根を止める術を身に付けなければならなかった青年将校や、南の島でジャングルに潜み、飢えに苦しみながら命を落とさなければならなかった若者たち、そして飛行機ごと敵艦に激突して行った者たちとは、全く正反対の夏の夜をこうして過ごしている事の尊さを、子供たちも実感する時が来るのだろうか。それはわからない。
 
還暦を過ぎ、今頃になってようやくこの国が辿った近代史の詳細が所々わかって来た事は、この夏の収穫でもあった。玉音放送が全国に流れたのは僕が生まれるたった13年前の事なのだ。そして否応なしに寒気を覚えるのは、13年という短い時の流れの中でも、政治や民意、取り巻く環境、そして生活というものは、状況によって幾らでも極端に変化するという事実なのである。
 
思い立ってSNSで繋がっている韓国の友人二人にメッセージを送ってみた。一人はソウル市内、もう一人は南部のチョンジュ市に住む、仕事を通じて知り合い、その後も交友が続いている友人達だ。この10年で4回ほどお互いに行き来し、共に食事をし、酒を酌み交わし、笑い合い励まし合って来た。

「政府間のあれはまるで子供の喧嘩だ」
「政府は政府、我々は我々だ。これからも変わらずに連絡を取り合って行こう」
「家族の皆さんによろしく。また会おう」
 
二人の返信を読み、僕は胸を撫でおろし、また思わず「ふう」と溜息が出たのだった。


jpnsoldrrs

<エッセイ>ゴーシュの指

チェロを購入して一年になる。
若い頃からギターを弾いていたので、新しく楽器を始めることに抵抗はなかった。しかしいざ弾き始めると、これほど難しい楽器だとは思いもよらなかった。
 
昨年の七月に有志四人で始めたチェロ同好会、「芽室ゴーシュの会」も、十勝毎日新聞社の取材を受けてメンバーの募集記事が紙上に掲載されたのを機に徐々に会員が増え、半年後には15名の大所帯になってしまった。なので月に一度札幌から来られ、泊りがけで全員にレッスンを行ってくれる先生との打ち合わせ、そして月に二回行っているメンバーだけでの合同練習会の会場の確保など、頭を悩ませることが多い。

それは嬉しい悩みでもある。同じ楽器に魅せられた仲間が集まり、和気藹々とした雰囲気に心が癒される。メンバーはほとんどが女性だが、専業主婦は一人もいない。畜産大学の研究者、種苗会社の役員、小学校の養護教員、公務員、そしてお店の経営者など、毎日フルで働かれている女性ばかりだ。

「なかなか練習時間が取れなくてねー」

「私もです。この練習会が無いとついついなまけちゃうんですよねー」

などと言いながら、皆それぞれに先生から与えられた課題の練習に余念がない。彼女らが思い思いに弾くチェロの音が、練習会場のドアの外でも唸りとなって聞こえて来るのを耳にするのは、同好会を立ち上げた身としては嬉しい瞬間でもある。

今まで8回のレッスンを受け、最初はただスース―、ゴーゴーと雑音しか鳴らなかったチェロではあるが、何とか1-2曲のメロディーを弾けるようにはなった。しかし左手の指を指板の上で震わせて演奏する「ビブラート」ができない。しかも拡張ポジションなどという途方もなく指を開かなければいけない抑え方など全くできないでいる。ビブラートの無い弦楽器の音ほど間抜けなものは無いし、拡張ポジションができないと、今後まともな演奏など無理なのである。練習を繰り返してもうまく弾けず、ほとほと自分の左手の不器用さに嫌気がさしてくるのだ。

宮沢賢治の童話から取って付けた同好会の名前ではあるが、よく調べると「ゴーシュ」というのはフランス語で、「左」、「左利き」を表し、転じて「不器用な」あるいは「歪んだ」という形容詞で用いられるらしい。指の関節が曲がって硬く、柔軟性に乏しい自分の左手を見るにつけ、自分こそがゴーシュなのだと落ち込んでしまうのである。

名曲であるサン・サーンスの「白鳥」や、チェロを始めるきっかけになったモリコーネの「ガブリエルのオーボエ」、そして大好きな映画、「ニューシネマパラダイス」のテーマ曲など、悠然と人前で弾けるようになるには、あと何十年かかるのだろうか。チェロを前にして、人生があまりにも短い事に気づかされる。

最近は「それでも良い」と思うようになった。延々と受け継がれてきた音楽の前では、人間ひとりの人生など本当に短い。この歳になって初めて楽器を弾くという事の奥深さを知り、言葉など敵わない音楽の力に嘆息し、憧れ、そしてその世界の裾野の片隅に、こうして身を置いている事こそが至福なのだと感じる。きっと病の床に就く直前まで、左手の不器用さを恨みながら、私はチェロを弾き続けるのだろう。そうありたいと願っている。

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<エッセイ>ラジオの声、飛んで行け!

毎週木曜日の午前10時50分から11時までの10分間、HBCラジオにて『Mr.TakashimaのEnglish Conversation(英会話)』という番組を担当して半年になる。年々増え続けている外国人観光客をもてなす為に、ごく簡単な英会話を様々な場面設定で練習する語学番組だ。

HBCラジオのパーソナリティー、金知実さんが私の教室の生徒だったことがきっかけとなった。今年の二月ごろ、春からの新しい番組編成を支局長から命ぜられた彼女から、「英語の番組を作りたいのですが」と持ち掛けられた。美人にものを頼まれると断る事のできない私は、熟考もせずに承諾した。
 
請け負ったのは良いのだが、平日の午前10時50分にHBCラジオを聴いている人は一体どれほど居るのだろうか。まったく想像がつかない。しかも全道放送ではなく、帯広支局をキーステーションに釧路、根室の道東だけで放送される番組だから、おそらくトラックやタクシーの運転手さんのごく一部の人達しか聞いていないだろう。あとはたまたまラジオがかかっている牛舎で、のんびり寝そべる牛たちぐらいのものだろう。 

それでも頼まれた以上は全力を尽くすべく、月に一度帯広放送局へ行き、一時間ほどかけて一か月分を収録する。四週分の時もあれば五週の時もある。台本を自分で書いて準備するのだが、これがなかなか骨の折れる仕事で、まったく英語の知識が無い人を対象にしている事を前提に、うんと頭を悩ませながら英会話の文を作るのだ。

しかし、自分で担当している番組にも拘らず、実際に放送を聞いたのは三回しかない。それほど木曜日という平日の午前中の10分間は、一瞬で過ぎて行くものだ。『あ、今日は放送日だったんだ』と時計を見るのは、決まって木曜の午後になってからだ。番組の作り手である自分でさえこうなのだから、この広大な道東エリアで私の声を聴いている人は限りなくゼロに近いのだろうと思っていた。

そんな折、通訳の仕事でオランダ人のエンジニアを連れ、依頼先の営業マンの車で中標津へ向かった。朝八時に出て阿寒の峠を超え根釧の酪農地帯に入った時、いきなり自分の声がラジオから響いた。

「Mr.Takashimaのイングリッシュカンバセーション!」と叫ぶ私のダミ声の後、リズミカルなジングルと、金知実さんの軽やかで涼しい声のアナウンスが聞こえた。放送日だったことを私自身すっかり忘れていたのである。
 
知実さんと私のやり取りが流れる車内で、車を運転していた営業マンのKさんが「あれ?」と声を発しこちらを見た。

「ひょっとして、これ、高島さんですか?」
 
驚いた彼の表情は今でも忘れない。

「ええ、私です」

「マジっすか? ええ? こんなことされてたんですか!」

「はい、四月からです」

「いやあ、凄い! あっはっはー」と笑う彼に続いて、後部座席のエンジニアも「Is that you? Yusuke? (悠介、これは君なのか?)」と身を乗り出して来た。
 
事の成り行きを車内で説明した後、二人とも静かに番組を聴き、終わった時には「イエーイ」と声を上げパチパチと拍手。実に照れ臭かったのだが、視線を移した車窓の向こうには果てしない牧草畑が続き、予想通り牛たちがのんびりと草を食んでいた。

『やっぱり牛しか聴いてねえか…』

心の中で独りごちたものの、人口よりも牛の数の方が多いこの田舎の空に、確かに私の声が電波になって飛んでいたのである。
それからも相変わらず木曜日は自分の放送がある事も忘れ、家事や仕事の準備であっという間に午前が過ぎてしまっていた。

そして9月6日の未明、北海道胆振東部地震が起きた。

生まれて初めて三日近くに及ぶ停電を経験し、すべての店の陳列棚から食料品が消えた。こんな時煮炊きのできない、風呂も沸かせないオール電化住宅など建てなければ良かったと後悔しても仕方がない。学校が休みになった娘と共に、とにかく食えるものをかき集めた。町職員の妻は災害対策で殆ど役所に詰めており、夜は娘と二人じっと蝋燭の炎を見つめていた。

厚真町近辺で起こった惨事には本当に胸が痛む。台風、地震とここ数年の日本列島は何か災いの神にでも祟られているかのようだ。気候変動もさることながら、活断層や深層部の地層のずれ。まるで大雨や突風が吹きつけるグラグラと不安定な屋根の上で生きているような心地さえしてくる。

そんな漠然とした不安感を忘れようと、久しぶりに家の前の歩道を竹箒で掃除をした。停電も復旧し、スーパーにも徐々に食料品が戻ってきている。

箒で集めたごみをちり取りで掬っていると、去年まで町内会の副会長を務めておられたNさんが車で通りかかり、私の家の前で停車し、窓を開けて声をかけて来られた。

「高島さーん、ラジオ、毎週聴いてるよ! 頑張ってるねえ。」

驚いた。そしてその時やっと自分のラジオ番組の事を思い出したのだ。

「俺はいつもこうやってポケットにラジオ入れて聴いてるんだ。聴くのは昔からHBCラジオだけでさ。そしたらあんた、高島さんが出てるんだもんさ。ぶったまげたわあ!」
 
胸ポケットから携帯ラジオを取り出して見せるNさんの笑顔がパーンと弾けて見えた。

「ありゃまあ、どうも有難うございます」
 
そう返して一礼をすると、Nさんは再びアクセルを踏んで去って行かれた。
箒と塵取りを持ちながら空を見上げた。

真っ青な秋晴れの空だった。

<エッセイ>幼齢弦や鍵器をとって

チェロの弓に付ける松脂を買いに、札幌の「島村楽器クラシック館」を訪ねた。店は旧道庁赤レンガ庁舎から続く通りの、モダンなビルの三階にあった。今まではギターやドラムなど、軽音楽の楽器を扱う店には何度も足を運んだが、クラシック音楽専門の楽器店は六十年の人生でこれが初めてだった。 
 
壁一面に吊るされた夥しい数のバイオリンやビオラ、床に立てられたコントラバスやチェロ。そして厳かに並んでいる多くのグランドピアノ。オーボエ、クラリネットなどの木管や、ホルン、トランペットといった金管楽器などがとても美しく陳列され、店内には静かにヴィヴァルディの「四季」がBGMで流れている。そこは溜息を誘うような、優雅で、静かで、そして気品に満ちた空間だった。

ショーケースの中に陳列されているバイオリンで一番高い物には五百万円の値札が付き、説明書きにはイタリアのクレモナ製とあり、それを作った職人の名前もある。おそらく相当高名なバイオリン職人の手による物なのだろう。他にも演奏に必要な弓なども、三十万円、七十万円、百万円の値札が付いている。チェロ同様、ネットで二万円で購入した私の弓と、姿かたちは全く同じなのに、いったい何が違うのだろうか。素人の私は、おのぼりさんの様にただ「はあー」「ほおー」と嘆息するしかなかった。

店の端の陳列棚に、松脂が数種類置いてあった。チェロもバイオリンも、弓の毛にこの松脂をベタベタと塗らないと音が鳴らない。そしてやはりそれらも品質によって価格はまちまちなのである。安いものだと二千円。高いものだと三万円のものもある。

どの松脂にしようか…と思いあぐねていた時だった。BGMで流れていたヴィヴァルディがプツっと止まったのだ。ちょうど「春」の第三楽章で、私の好きなメロディーだったのだが、どうしたのだろう。

しばらく店内がしーんとした後、再び第三楽章の冒頭からBGMがスタートした。

「CDプレイヤーの不具合かな?」
 
そう思いながら琥珀色の松脂を手に取り眺めていると、またしても音楽が停止したのである。不思議に思い、店内を見渡した。スピーカーらしきものは見えない。訝っている内にまた第三楽章がスタートした。よく見ると音の聞こえてくる方向にドアがあり、そこに三十㎝四方の窓が付いていて、実はそのメロディーはそこから聞こえてきているのが分かった。

 ドアに歩み寄り、小窓を覗いた私は驚いて腰が抜けそうになった。ヴィヴァルディのその旋律は、実はBGMなどではなく、小学三―四年生の小柄な男の子が奏でるバイオリンの音色だったのである。

 男の子は額にびっしりと汗をかき、必死に旋律を弾きこなそうと楽譜と対面し、小さな体でバイオリンを操っている。それはプロが弾く音だった。その練習スタジオの存在を知らない客は皆一様に、彼が奏でる調べをプロが演奏するCDだと思うに違いなかった。
 近くにカウンターがあり、そこに立っていた若い男性店員と目が合った。

「あの子、すごいですね! いやあ、びっくりしました」
 
思わず私は店員に声を掛けた。彼は大きく頷いて言った。

「ええ、凄いですよね。あの子は去年、バイオリンコンクールの全国大会の小学生部門で二位になった子なんです。今年は絶対に一位を取りたいと、休みの日にはこうやって開店時からこのスタジオに入って四―五時間は練習して行くんですよ」
 
驚きと感動で言葉を失った。

そして私は宮沢賢治の詩、「告別」を思い出した。

『おまへのバスの三連音が
どんなぐあいに鳴ってゐたかを
おそらくおまへはわかってゐまい
その純朴さ希みに充ちたたのしさは
ほとんどおれを草葉のやうに顫はせた
もしもおまへがそれらの音の特性や
立派な無数の順列をはっきり知って自由にいつでも使へるならば
おまへは辛くてそしてかゞやく天の仕事もするだらう
泰西著名の楽人たちが
幼齢 弦や鍵器をとって
すでに一家をなしたがやうに…』

おそらくあの男の子は、三―四歳からバイオリンを親に与えられ、来る日も来る日も練習に明け暮れて来たのであろう。そしてきっと十年後には音楽大学へ進み、将来はどこかのオーケストラに入ったり、あるいは留学して高名なバイオリニストに師事し、大人になった後もバイオリンを職業として行くのかもしれない。チェロを習い始めたばかりで、ドレミファソラシドすらまだまともに弾けない私とは全く次元の違う世界がそこにはあった。その世界の厳しさと眩しさは、スタジオの中で汗まみれになって楽器を弾き続けるあの男の子が体現していた。

音楽の演奏で身を立てるという事は並大抵のことではない。賢治の詩の中にある様に、幼齢弦や鍵器をとったとしても、一家を成せずに終わる者の方が圧倒的な数であろうと思う。それを予言するかのように賢治の詩は続くのである。

『けれどもいまごろちゃうどおまへの年ごろ 
でおまへの素質と力をもってゐるものは
町と村との一万人のなかになら
おそらく五人はあるだらう
それらのひとのどの人もまたどのひとも
五年のあひだにそれを大抵無くすのだ
生活のためにけづられたり
自分でそれをなくすのだ
すべての才や力や材といふものは
ひとにとゞまるものでない
ひとさへひとにとゞまらぬ』

帰途の三時間は黙考のひと時となった。
思いは自分のこれからのチェロの演奏や練習における心構えから、このように随筆や小説を書くこと。そして生業としている英語の技能の維持と向上に対する己の姿勢にまで及んだ。なんの為にチェロを弾くのか。何の為に文章を書くのか。そして自分は日々英語の技能を研鑽しているのだろうか。

随筆教室『檜葉の会』にお世話になり、今年で十年になる。この間、小説も随筆も何とか書き続けて来られた。月に一度の例会では、鈴木扶先生の講評や、諸先輩の作品に大いに刺激を受け、勉強を続けて来ることができた私は極めて幸せ者だと思う。しかし私にはあの楽器店のスタジオで目にした少年のような真剣さ、ひたむきさはあったのだろうか。

チェロはどうだろう。基礎的な音階の演奏を本当に必死で練習しているだろうか。仕事の為、生活の為という言い訳で、するべき練習をおろそかにしてはいないか。

英語も同じだ。講師・通訳という仕事をしているだけでもう勉強は終わったと思ってはいないだろうか。
賢治の言う「すべての才や力や材というものは人にとどまらぬ」というのは真実なのだと思う。チェロを弾くことも文章を書くことも、そして語学も、真剣に続けていなければそれらは遠ざかって行く。自分の手から離れて行ってしまうのだ。そしていずれ気が付いた時には「弾けない」「書けない」「話せない」という状況に陥るのだろう。

黙々と必死にバイオリンを弾く五十歳ほど年下の少年から、私は今まで気づかなかった、何かとても大切なことを学んだのである。

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<短編小説> 告別

九十二歳になるチェロ奏者、松平清二は夏の饒舌さが苦手であった。豊満な光を放つ積乱雲とその上に見える紺碧の空が目に痛い。密度濃く生い茂る草木と羽虫の群れ。高湿度の空気を裂くかのようにいきなり降り始める雨。再びじりじりと照り付ける太陽と大地からの蒸散、そして陽炎。まるで自然界に行き渡る水の循環が加速度を帯びたようだ。地表から空の高みまですべてにエネルギーが満ちている。清二はそんな夏が嫌いなのだ。

夏は若者の為にある。その身体の中にほとばしる生殖能力と柔軟な骨肉を持ち、夜の街で、砂浜で、山間の湖のキャンプ地で、あるいは酷暑の歩行者天国で、賑やかに今をむさぼる彼ら若者の季節である。

重いチェロケースを背負い、駅を出てタクシーに乗る。今日もリハーサルへ向かう道すがら、清二はエアコンの効いた車内から夏を見つめる。公園の噴水で水遊びをする幼児を見守る若い母親たち。タンクトップ姿の彼女達のうなじが、汗でほつれた黒髪をへばりつかせたまま艶めく光を反射する。それと呼応するかの様に、小麦色の肌をした子供たちが上げる水の飛沫が、太陽を受けてキラキラと光る。

そんな生命力と希望に満ちているはずの光景に、清二は一瞬でも目元を緩ませはするが、数秒後には自分の中に羨望と嫉妬がない交ぜになった感覚が芽生えるのを見逃さない。そしてたまらなくなり目を閉じるのである。

ここまで独身を通し、ついに家族を持つことなく生きて来た。二十年前までは東京の交響楽団で首席チェロ奏者を務めていたが、七十二歳で楽団を辞した後も、全国各地で、こぢんまりとした演奏会を年に二十回はこなして来た。彼のチェロには一定のファンがおり、チケットはすぐに完売した。ソロイストとしてのアルバムも三枚出している。特に彼が弾くバッハの「無伴奏チェロ組曲」には定評があった。

リハーサルは今日が最後である。週末、清二はオーケストラと共にソロイストとしてサントリーホールのステージに立ち、エルガーのチェロコンチェルトを演奏する。一年ぶりの大きなコンサートである。

九十二歳という年齢とはいえ、清二はいたって健康である。足腰が少々弱ってきている実感はあるが、認知症や三大疾病とは縁遠い生活を送ってきた。旧友たちの殆どがすでにこの世を去った後にも、なぜ自分がこのように健康でいられるのかはよく分からない。しいて言えば、清二は若い頃から粗食であった。しかしそれが自分の身体に功を奏したのかどうかも定かではない。タバコは吸わないが酒は嗜む。特に四十代にイギリスを演奏旅行してからというもの、スコッチウィスキーのオンザロックが彼の一番のお気に入りとなった。
 
そんな老チェリストであったが、「もうコンサートはこれで最後にしよう」と思うのだ。体力よりも最近特に気力の衰えを感じることもある。それとは別に、ここ三年ほど妙な孤独感が清二を包み込み、時々無性に悲しく、そして虚しくなる事が増えたのだった。

エルガーのチェロコンチェルトはホ短調の激しく絶望的な旋律を帯びたチェロの独奏から始まる。最初の数小節で聴衆は否応なしにその曲の世界に引き込まれる。リハーサル会場で指揮者の合図を待ち、演奏を始めた清二の背中を、追奏するバイオリンとビオラの音が包み込んだ。そして彼は目を閉じながら自分の人生の俯瞰を始めるのであった。

太平洋戦争時、清二は学徒動員で招集された。一九四三年の秋、十八歳になったばかりの清二が明治神宮外苑競技場で出陣学徒壮行会に参加した時、冷たい秋雨が降りしきる中、観客席で彼を見守る両親から少し離れた場所に一人の女学生がいた。同じ東京音楽学校でバイオリンを専攻していた羽芝基子である。同じ管弦楽講座で知り合った二人は急速に惹かれあい、恋仲となった。

「基子さん、僕が戦地から戻ったら、結婚を前提としてお付き合いしてもらえないだろうか」
 
招集が届いた日の夕刻、清二は学校の傍の喫茶店へ基子を呼び出し、緊張した面持ちでプロポーズをした。

「はい」
 
基子は頬を染めて小さく返事をした。
申し出を受け入れてくれた基子の前で、清二は饒舌になった。

「僕はチェロを職業にしようと思う。結婚したら、チェロとバイオリンの合奏団を作れるくらいたくさん子供を作ろう!」
 基子は心底嬉しそうに微笑みを返した。

帝国陸軍に入隊して三か月後、清二はフィリピンのレイテ島にあった第三十五軍司令部へ配属された。戦況は過酷を極めた。上陸してくる米軍に対し、水際作戦で一度ならず失敗を経験している軍司令部は、清二が所属していた第十六師団に対しジャングル内での徹底抗戦を命じた。鬱蒼とした熱帯雨林での攻防三日目にして、清二は腹部と右大腿に銃弾を受け泥の中に倒れた。生命が危ぶまれるほどの重傷だった。止血処置を施され、衛生兵と仲間の兵士に担架で運ばれる際、仰向けに揺られながら清二はジャングルの木々の上に真っ白な積乱雲を見た。そして意識を失ったのである。

島の北側へ抜け、船に乗せられてルソン島の野戦病院へ送られた清二は、やがて自分が奇跡的な生存者であることを知る。第十六師団一万八千人の殆どがレイテ島で命を落としたからである。出血は止まったが身体に受けた傷は深刻だった。右脚の太腿は銃弾がうまく骨を避けて貫通した穿透創であったが、腹部に受けたものは、右の骨盤から斜め下に向かって足る盲管射創で、未だ体内に銃弾が残っていた。軍用機で寝たまま十時間かけて鹿児島まで戻った清二は、国立指宿病院で長時間に及ぶ手術を受けた。術後の病室の窓からは錦江湾が見えた。そしてそのはるか向こうに桜島が噴煙を上げている。

「これでやっと基子の元へ帰ることができる」
 
日本に帰ってきた事を実感し、清二はほっと溜息をついた。
 
しばらくして、清二は医者から呼ばれた。

「あと一週間もすれば退院できるが、松平一等兵、君に伝えておかなければならない事がある」
 
神妙な表情をした医者の口から出た言葉を聞いて清二は愕然となった。
 
最後まで残っていた弾丸が、清二の膀胱と精巣を破壊していたのである。通常、音速で飛んできた弾丸は生体内に入るとジグザグに突進する。骨盤の中ほどに突入したそれは、高速で角度を変え、右脚の付け根から一度体外に出て再び陰嚢に突き刺さった。膀胱は縫合することで復元できたが、医師は傷ついた二つの精巣を除去し、その場所に当時日本で開発されたばかりのケイ素樹脂を埋め込んだ。見かけだけでも整えてあげようと、若き清二のことを思っての処置であった。

 医師は静かに続けた。

「残念だが、君は子供を作れない。そしてこれははっきりとしないのだが、体内で回転した弾丸が君の脊髄から来ている神経の束の一部も傷つけた可能性があるのだ」

「それはどういうことでありますか」
 
弱々しい声が清二の口からこぼれた。

「性的刺激を受けても、君の身体は反応しないかもしれないのだ」
 
貧血に似た感覚が全身を包み、目の前が暗くなって行くのを感じた。男としての機能を奪われたかもしれないという医師の話は信じがたかった。清二はほとんど礼の言葉も発せず、軽く一礼して診察室を出た。

病室に戻ってしばらくは寝台の布団にくるまり、身体をエビの如く縮めて茫然としていた。そして考えた。あの激烈な戦場の中にあってでさえ、眠りから覚めると清二の若い身体は下半身が膨らんでいた。しかしそれが帰国してからは一切ない事に気がついたのだ。清二は起き上がり錦江湾を眺めた。遠くに見えるはずの桜島は雲に覆われてその姿が見えなかった。

 復員した清二を迎えた両親は、涙を流して喜んだ。東京も度重なる空襲で甚大な被害が出ていた。思い悩んだ挙句、帰宅した三日後に清二は基子の住居を訪ねたが、その家はすでに焼け落ちていた。そしてそこで基子の家族が半年前に長野へ疎開したことを知る。

「良かった。無事であってくれ」
 
清二は祈った。
 
翌年八月十五日の玉音放送から一か月ほど経過して、清二と基子は再会を果たした。長野に家族を残し、基子が東京に戻って来たのは、まさしく清二の消息を求めてだった。

「よくぞご無事で」
 
基子の大きな目が涙でいっぱいになった。

実家の門前で清二はあたりを伺いながらも、基子の手を取って引き寄せ、その華奢な身体を抱きしめた。腕の中で基子の嗚咽が聞こえた。

 小岩の親戚の家に身を寄せた基子は三日と開けず清二を訪ねた。清二の両親も基子を気に入り、母親などは「基ちゃん」と呼び、一緒に闇市に出かけたりもしていたが、清二はどこか落ち着きがなかった。

大腿部を負傷して帰国したとしか両親には話していなかったし、ましてや基子に真実を話すのはためらわれた。一か月ほど在京した基子が一度長野にいる家族のもとへ戻ることになった時、「物騒だから」と、父から長野まで送り届けるように言われ、清二は基子と二人で池袋駅を出た。基子は清二が自分の家族に逢ってくれるものだと思い、列車の中でも実に楽しそうだった。思いあぐねていた清二がやっと決心して基子に真実を話し始めたのは列車が大宮を過ぎた時だった。

「基子ちゃん。僕は君とは結婚できないんだ」

「え?」
 
清二の話を聞き続けている基子の顔がどんどんと蒼白して行くのを清二は見た。

「だから、君は僕の事は忘れて幸せになってくれ」

しばし涙ぐみ、俯いていた基子だったが、きっぱりとした顔を上げ清二の眼を真正面から見つめて言った。

「子供や夫婦の営みの事など、私は知らない。そんなものが無くたっていいわ。私には清二さんしかいないの」

「いや、駄目なんだよ、基子ちゃん。僕はきっと君を不幸にしてしまう」

「そんなことない! 私は清二さんと結婚する」

「だめだ、できないんだ!」
 
熊谷の駅で止まっていた列車が発車する寸前に清二は席から立ち上がり、通路を走ってデッキからホームに飛び降りた。ゆっくりと動き始めた客車の窓の内側に、涙で顔を歪めながらこちらを見ている基子の顔が見えた。

列車に基子を置き去りにして別れてから半年後、清二は音楽学校に復学した。やがて国立学校設置法の施行で、学校の名前は東京芸術大学に変わり、清二はそこでチェロに打ち込んだ。しかし実家を出て大学の近くの上野のアパートに入居してまもなく、再び基子が清二の前に現れたのだった。今度は有無も言わさず清二のアパートに居座り、洗濯から食事まで自分の身の回りの世話をする基子の情熱に清二は根負けした。思えば今でいう同棲の先駆けでもあった。

最初の内、基子は清二とは離れた場所に布団を敷き寝起きしていたが、やがて清二の方から基子の布団に入って行った。清二は初めて裸の基子を抱きしめたのである。二人は様々な愛の行為を試みたが、結局男としての清二の機能は果たされることはなかった。

「こうしているだけでいいの」
 
基子はその柔らかな肌を清二に密着させ、胸元で目を細めて呟いた。そしてやがて静かな寝息を立て始めるのだった。そんな二人の生活は三年半続いた。
 
二度目の別れも、切り出したのは清二の方だった。もうすぐ二十五歳になる基子には、やはり子供を産ませる力を持った男が相応しい。そして自分の中にも、家庭を持ち、それを育んで行くという事に対する思いが、徐々に希薄になって行くのを感じていた。大学を出て就職した交響楽団の仕事が終わっても、すぐにアパートには帰らず、街角の本屋や喫茶店で時間をつぶし、暗くなってから帰宅する事が多くなっていた。そして結局は、再び泣いてすがる基子を後に、清二は自らアパートを出た。一か月ほど友人たちの家を寝床に借りている間に、基子はアパートを去って行ったのである。
 
その後の清二の人生はチェロと共にあったが、浮いた話も無いわけではなかった。時期を違えて成り行きで二人の女と同棲したこともあった。しかしいずれも二年ももたなかった。そして出会って恋愛をした複数の女たちが必ず口にする言葉があった。

「こうしているだけでいいの」
 
女たちは清二の腕の中で必ずそう言った。しかし彼はその言葉を信じてはいなかった。
そして女との別れはいつも清二の方から切り出した。

「君を幸せにすることはできない」
 
それがいつもの決まり文句となった。

リハーサルが終わり、週末のコンサートの成功を仲間と期しての宴会が会場近くの居酒屋で開催された。楽団の若いメンバーの中に、ひときわ美しい女性がいた。三十歳前後と思しき聡明そうな大きな目が印象的だった。楽団の新人なのだろうか。確かバイオリン奏者の列の後方に座って演奏をしていた。彼女は宴席の中にあって、先輩たちに酒を注ぎながら「よろしくお願いします」と席を移動して動いていた。

「松平先生、坂井麻衣子と申します。先生と一緒に演奏できるなんて幸せです。よろしくお願いします」

「ああ、いやいやこちらこそ」

 そう返しながら、清二は彼女から継がれるビールを受け取った。すると彼女はおずおずと一通の封書を差し出した。

「あの、これ、長野の実家の隣のお婆ちゃんが、先生の大ファンだったんです。私たち仲良くしてて、先生のコンサートにも何度かお連れしたことがあって。そしてもし私がバイオリンでオーケストラに入って先生とお会いすることがあったら、このファンレターを渡してほしいって言われて。そのお婆ちゃん、三年前に亡くなったんですけど、これでやっとお渡しすることができます」

「ほう! それはありがとう」
 
礼を言い、受け取った封書を清二は背広の内ポケットに無造作にしまった。

帰宅後、清二は静かにその封書を開けた。一枚の便箋に見事な筆字で書かれた文章が目に飛び込んできた。

『松平清二様 どれほどの時間が過ぎたのでしょうか。私も子供ができない身体である事が分かり、嫁ぎ先を辞してこれまで一人で生活してまいりました。清二さんの活躍をいつも眩しく拝見し、そして貴方を思い続けてまいりました。次の世でも、貴方に出会いたい。そしてまたその暖かい腕の中で眠りたいと、切に願っております。 羽芝基子』

老チェリストはがくりと膝を落とし、生まれて初めて声を上げて泣いた。


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ガブリエルのオーボエと片思い

40代後半からクラシック音楽の美しさに惹かれるようになった。
還暦を迎える今年までに購入したCDも百枚を数える。特にバイオリンやチェロといった弦楽器が奏でる協奏曲が好きで、お気に入りのアルバムの数々をスマホに収納している。それらをBluetoothという無線機能を使い、家にいる時には線の無い専用スピーカー、外出時にはこれもまた両耳に装着するだけの無線イヤホンで聴いている。便利な時代になったものだとつくづく思う。

3年ほど前に、友人の勧めでチェロの大家、ヨーヨー・マのアルバムを一枚購入した。20世紀の高名な映画音楽作曲家エンニオ・モリコーネの作品を収録したものだ。そのアルバムの最初の曲、「ガブリエルのオーボエ」との出会いが僕を大きく変えた。
その曲は「ミッション」という、大航海時代に南米に渡った宣教師たちを描いた映画の挿入曲である。

浅学の一端ではあるが、「ガブリエル」と言えば聖書に登場する天使の名前だ。黙示録に出てくる天使ガブリエルは、トランペットのようなラッパを吹く事によって、人類に世界の終末を知らせるはずなのだが、何故この曲のタイトルは「ガブリエルのオーボエ」なのだろう…と訝りながら聴き始めたのだった。しかしそんな軽薄な疑問は一気に消え、耳に届き始めたチェロの壮大な旋律と、背景から絡んでくる多くの弦楽器の音の美しさに陶然となった。

それ以来すっかりヨーヨー・マのチェロの虜になった。中国で生まれた少年が、家族と共にアメリカへ渡り、文字通り世界一のチェリストとなるまでの過程もさることながら、音楽をこよなく愛する彼自身の人間性に触れ、その優しさと思考の深さに感銘を受け続けている。

以降、ヨーヨー・マを通してチェロという楽器の大ファンになった私は、様々なチェリストのアルバムを購入した。パブロ・カザルス、カトリーヌ・デュプレ、ミッシャ・マイスキーなどなど。 
  
特に42歳で夭折したデュプレが弾く、エルガーのチェロ協奏曲は、第一曲目の出だしの小節から聴く者の心臓をガツンと捕えて離さない。奏でられる旋律を耳で追いかけて行くと、デュプレはこの楽器を弾くためだけに、霊界から人の身を借りてこの世に舞い降りて来た天使だったのだと、未だに世界中から称賛される理由が素人でもわかる。

多発性硬化症という難病の為、幼少期から二十八歳までしか演奏活動を行えなかった彼女のチェロは、世界的遺産に匹敵する価値のある、ストラディバリウスのダヴィドフという名前の楽器で、1712年にイタリアのクレモナで作られた。彼女の死後、そのダヴィドフを引き継いだのがヨーヨー・マである。300年以上昔に作られた一台のチェロが、いまだに世界最高の名手によって弾かれ、レコーディングされ、私たちの耳にとろけるような音色を聞かせてくれているのだ。

聞いたところ、人間の声に一番近い音を出すのがチェロなのだそうだ。音域の高いバイオリンや重低音のコントラバスと比べると、なるほどそうなのかと納得もする。どんな曲中でもチェロの音が心地よく聞こえるのはそのせいなのだろうと思う。囁くようなかすれた音から重厚なバス、野太いバリトンから伸びやかなテノール、そして妖艶とも言えるソプラノまでを、繊細なビブラートと共にこの楽器は音で表現してくれる。

バイオリンをはじめとする、クラシック音楽で使用されるそれらの弦楽器は、北海道でいえばアカエゾマツと同じ種類のトウヒ属の木から作られる。世界的にはスプルースという名称で、切り出された木材は多くの分野で利用されているが、中でもイタリア北部のアルプス山脈界隈で切り出されたスプルースが弦楽器には最高とされる。

切り出されたスプルースは、その後3-40年間乾燥され、それを型通りに切り取り、緻密かつ均一に削り上げて本体を作る。その後、他の木材のローズウッド、マホガニー、黒檀などと組み合わせ、伝統のニスを何度も何度も繰り返し塗り、最後にペグと駒、そして弦を装着して完成する。こうして作られたチェロやバイオリンは、製作後300年後が一番良い音色を持つようになると言われている。そしてそんな楽器の最高峰が、イタリアのクレモナの老職人、アントニオ・ストラディバリの作品なのだ。ストラディバリウスという名称は、彼の名前から来ている。

因みにヨーヨー・マが現在弾いているストラディバリウスのダヴィドフは1億6千万円だという。目が飛び出るような価格だが、いつも聴いているのはそんなチェロの音なのだ。そしてオーケストラで使われているチェロの価格は一本が200万円から500万円らしい。

そんな高価なものには手は出ないが、クレモナ産ではなくても、今では世界中にチェロの生産者は存在する。特にヨーロッパで長年の修業を積んだ中国人が、帰国後に自ら工房を開設し、全く同じ技法で作った弦楽器が注目を集めている。現在ではヨーロッパで製作されるものと比べても遜色なく、中には欧州産以上の楽器を作る人が増えたという。

今までは聴くだけのチェロだったが、ここまで情報を集めると、もう居ても立ってもいられなくなってしまった。
「チェロが欲しい! チェロを習って弾けるようになりたい。どうせなら腕を上げて市民オーケストラに参加して演奏してみたい。今後の人生はチェロと共に歩んでいきたい。ゆくゆくはヨーロッパへ行き、自分にとって最高のチェロを手に入れたい!」そんな風に思いはじめたのだ。

何はともあれ、中古品でも良いからチェロを購入し、習う先生を探さなければと思っていたところ、運よく私の英語教室に通っている生徒に、オーケストラでバイオリンを弾いている女性がおり、彼女の紹介で札幌にチェロの先生を見つけた。
私が月に一度札幌に出てレッスンを受ける予定で話を進めていたのだが、ここに来て、一緒にチェロを習いたいという友人が四名現れた。その中の一人は古くから親しく付き合いのある岐阜県在住の友人で、「塚田さんと一緒に始められるのなら」と早速ルーマニア製のチェロを購入。名古屋に先生を見つけ、こちらで行われるレッスンにも時々飛行機でやって来て参加すると言ってくれている。 

予想外に話が大きくなってきた。僕の先生も毎月札幌から芽室まで来てレッスンをしていただくことを快諾してくれた。四人とも今までチェロなど触ったこともなく、楽器もほとんど弾いたことのない人もいる。弓の持ち方から楽譜の読み方といった、全くの基礎から教わることになった。

老後に向かって何か楽器を弾けるようになりたい。昔からチェロには憧れていたが始める勇気がなかった、など、皆思いは様々であるが、仮称「芽室チェロ愛好会」は、7月の終わり頃に、先ずは皆で札幌へ行き、先生に同行してもらって楽器を選んでもらい購入することから活動が始まる。

抜け駆けでないのだが、私の元には皆よりも先にまもなくチェロが届く。中国産ではあるが、ストラディバリウスと同じ技法による手作りのチェロである。弓も、チェロスタンドも準備完了。あとは憧れていた美しい楽器を待つだけとなった。
 
ガブリエルのオーボエから始まったチェロへの惚れ込み。その片思いにチェロがようやく気づいてくれたようだ。
なんだか初心な若者の様に嬉しいのである。

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<エッセイ>イリジウムの空

面白い携帯アプリを手に入れた。
 
「スペースステーション」という、人工衛星や国際宇宙ステーションなどの人工天体が空を横切る時に、携帯画面上で、音とメッセージによって知らせてくれるものである。

あと何分何秒で肉眼によって確認できる位置に来るか、その方向と高さ、そして輝度を正確に教えてくれるから、画面の誘導に従って空を見上げれば、星空の中を横切ってゆくそれらの天体が容易に目視できる。
 
アプリをスマホに取り込んだものの、夜間に何度も衛星通過の知らせが画面を光らせても、あいにく曇天だったり、仕事中で外に出られなかったりと、チャンスに恵まれなかった。

そんな折、10月15日の午前3時、トイレに起きてベッドに戻ると、枕元のスマホの画面に、明るくメッセージが記されていた。

「イリジウム52のフレアが発生します」
 
あと44分で南西の空。仰角は80度とある。
 イリジウムとは、アメリカのイリジウムコミュニケーションズ社が90年代後半に、750キロメートル上空の地球周回軌道上に打ち上げた、66個の人工衛星の名前だ。ひとつひとつに番号が付されており、普段は目には見えないが、いつも成層圏の遥か向こうをぐるぐると飛んでいる。

それらは他の人工衛星とは違い、筐体がすべて鏡でできており、軌道上で太陽光を反射しながら移動している。ミラーボールの様な丸いものではなく、いくつかの平面で構成されている造りの為、一定の反射光がベルト状に地球を照らす。それが丁度観測者の上空に来て眩い光を放つことを「フレア」と呼び、観測マニア達は、その数秒の光を撮影するためにカメラを携えて夜の野外に立つ。

そんな衛星イリジウムだが、母体である会社は17年前に一度倒産。その後は他社資本の助けを得て再発足したが、なかなか通信インフラとして普及せず、現在では洋上を行く船舶電話の電波を中継するだけの役割しかなく、66個の内、使用されるのはごく一部の衛星だけだという。

したがってほとんどは、ただ黙して宇宙空間を周っているだけなのである。利用もされずに延々と周り続ける人工衛星に、もしも心があったとしたら、さぞや孤独でたまらないだろうと思う。

携帯画面の通知を見たものの、眠気に押されて一旦は目を閉じたが、ふと、ここ数日の空は晴れている事を思い出し、一度身体に被せた布団を勢いよく払って服を着た。家族が起きないよう、極力音を立てずに洗顔を済ませ、そっと玄関から出て、車のエンジンをかけた。空気がピリッとしていて気持ちが良い。

コンビニで温かいコーヒーとサンドイッチを買い、町はずれの丘の上に向かった。
イリジウムの通過まであと20分。ラジオをつけると、優しく柔らかな女性アナウンサーの声が聞こえて来た。「ラジオ深夜便」の森田美由紀アナウンサーだ。何度もNHKのニュースや解説番組で見かけたお顔を思い出し、こんな真夜中に、人気のない真っ暗な田舎道をドライブする身としては、なんだかほっと包まれたような気持になる。

目的地に着き、ヘッドライトを消して外に出てみると、満天の星空である。オリオン座が南の空高く君臨し、その足元にはカシオペアとプレアデス星団。天の川まではっきりと見える。本当に久しぶりに星空を見上げた気がする。スマホを取りに車に戻ってエンジンを切ると、ラジオの音も止まり、底知れぬ静寂に包まれた。

近くに人工の明かりが何もない真っ暗な丘の上からは、足元に芽室の街灯り、そしてその向こうには帯広の街が見える。そこでしばらくは茫然と漆黒の天蓋に散りばめられた星々を見つめた。風も無く穏やか夜空ではあるが、圧倒的な星の輝きが、冷たい未明の空気をより引き締めているような感じがする。

「こんなに星が見えるものなのか…」
 
思わず独り言が出る。ジャケットのファスナーを首のところまで締め直し、手に持っていたスマホのアプリを立ち上げた。
 あと45秒、30秒、20秒…。画面上でカウントダウンが始まる。スマホを空にかざすと、明るい矢印が画面に現れ、見えてくる方向を指し示す。

5秒、4秒、3秒、2秒、1秒…。
 
ゼロ秒きっかりに、オリオン座の北側の腕の下で、強い光を発しながら動く物体が現れた。固唾を呑んで見つめていると、光はますます眩しくなった。それは東の地平線の上に出ていた金星よりもずっと明るいものだった。明るさのピークを過ぎた後は、徐々に暗くなって行き、やがてオリオン座の足元あたりで、完全に見えなくなった。

イリジウムの大きさは自動車一台分くらいだという。しかしそれは確かに、750キロもの上空から、こちらに向かって太陽の反射光を、強く鋭く投げかけたのである。
 
無音のドラマを見たような気がした。家族も友人達も寝静まっているはずの、この深い未明の夜空の舞台で見たものは、宇宙科学と物理、人類の技術が織りなす光のドラマではあったが、同時にそれは、人間の経済活動の脆さ故に、宇宙という絶対的な孤独の空間に取り残された物が放つ、実に悲しい光跡でもあった。

車に戻ってドアを閉めエンジンをかけた。温かいヒーターとラジオが戻った。

森田アナウンサーの声を再び聴いたとき、どことなく冷たい宇宙から無事に地球に生還したような、不思議な安堵感を覚えた。



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いのちの密度

週に一度、鹿追町で英会話の訪問レッスンがあり、夕刻に道道五四号線を走る。
西部十勝特有の、十勝川に削られた河岸段丘を縫うように超えて行く、起伏とカーブに富んだ道だが、麦畑やとうもろこし畑のなだらかな斜面と、その向こうに見える夕陽を浴びた東大雪山系や日高山脈がとても美しい。この界隈では僕の最も好きな道路でもある。
 
鹿追音更線に合流するまでの約15キロの道のりの中で、両方の路肩から伸びる樹木の枝が、夏にはトンネルの様に道路を覆う上り坂のカーブがある。僕はそこを勝手に「コッツウォルズ坂」と名付けている。以前、輸入の仕事で何度かレンタカーを走らせたイギリスの名勝地、コッツウォルズの風景にとてもよく似ているからだ。

昨年の夏は、そんな道道54号線を走りながら、イギリスを舞台にした短編小説の構想を練ったりもした。また大好きなヨーヨーマのチェロを聴きながら走る事もある。なにせあの道は、文学・音楽を問わず、芸術を嗜好する者にとっては、どこかしっくりと、目と心に染み入る風景を持った区間ではないかと思う。

しかし先日、一番のお気に入りであるコッツウォルズ坂を登りきったところで、突然狐が飛び出したのだ。慌てて踏んだ急ブレーキの音が、夕暮れの田舎道の空に響き渡った。時速70キロ程出ていたと思う。間一髪であった。車のぎりぎり前方を、子狐は右から左に駆け抜けて藪の中に消えた。瞬間的な視野の中に、右側にもう一匹、道路を渡ろうとしていた別の子狐も確認できた。

7月は、生まれて3~4ヶ月の子狐達がとても活発になる時期でもある。黒い幼毛が抜けて斑になり、巣から離れての行動半径がどんどん広くなる。それほどの警戒心も育っていないせいか、道路にも平気で出入りする。この2年間に百回ほど往復した経験から、鹿追―芽室間のあの道路沿いには、3~4キロごとに狐が生息しているのが分る。それは路上で目撃した場所の数でしかないから、実際の生息密度はもっと濃いのかもしれない。

北海道は野生動物が多い。狐の他にも時折遭遇する鹿にはびっくりさせられる。三十歳の時、真冬に陸別の友人宅へ遊びに行った。足寄を超えて大誉地付近のカーブを曲がり切ったところで、突然大きなオス鹿が目前に現れた。急ブレーキをかけた途端に凍結路面で制御を失い、くるくるとスピンをしてガードレールに衝突した。怪我は無かったが、潰れた車のボンネットとバンパーを直すのに、えらく金がかかった思い出がある。二十八年前の事故であるが、今でもその場所では、僕がぶつけたガードレールの支柱が一本、十五センチほど路外に向かって傾いている。

道路に飛び出す野生動物の種類も、地方によっては様々である。何年か前に妻の実家の山口県へ遊びに行った際、義弟の運転で萩市まで山道を走ったことがある。緑に囲まれた細い道路を走っていると、「コトン」という音がした。その直後、義弟が「ありゃあ、蛇を轢いちまった」と言った。

「蛇かい。この辺、よく出るの?」

「そうやねえ。ちょくちょく出よるんよ」

「狐とかはどう? この辺は狐とか狸とか、いるんじゃない?」
 
義弟の返事を聞いて驚いた。

「狐や狸よりも、猿やね。一度轢いちまった事があるんよ。そりゃあ猿を轢いたらさすがに気色悪いっちゃね」
 
北海道民にとっては、猿を轢くという事がどんな事なのか、想像すら難しい。狭い国土なれど日本の森は深く、その森が育む生き物の種類も多いのである。

 
以前オーストラリアに行った時には、道路脇にカンガルーのシルエットを描いた標識が注意を促していた。オーストラリアならではと思ってはいたが、気球乗りのツアーに出かけた際、バスの窓から見た「ワニ飛び出し注意」の看板にはさすがに驚いた。
数年前に訪ねたフィンランドの国道には「トナカイ飛び出し注意」の標識。ドイツの田舎道には「野ブタ飛び出し注意」の看板があった。イギリスではちょくちょく「野ウサギ飛び出し注意」の看板を見る。

インターネットで調べてみると、国が違えば飛び出す動物の種類も様々な事が分った。中東ではラクダ。ノルウェーの北方ではシロクマ。南米では陸ガメ。タスマニアではタスマニアデビル、などなど。

地球上で人間は多くの動物達と共存してはいるが、一方でそんな動物たちを犠牲にし続けている。高速化、集積化された文明生活の中で、同じ空間の中で生きる人間以外の生き物の存在とその生息密度に、僕たちは意外と無頓着なのではないだろうか。

写真マニアの長男は、週末になると車で撮影旅行に出かける。概ね、星を撮ったり、夜明けの雲海を撮ったりするから、出発するのは夜半になる。深い森の林道を走る事も多いらしい。

「何が飛び出してくるか分らないから、あまりスピードを出すなよ」と声をかける。

「うん」
 
気の無い返事を残して、玄関を出る息子が無造作に背負ったリュックの横で、以前祖母から買い与えられたクマ除けの鈴がチリンと鳴る。

コッツウォルズ坂の子狐の出来事以来、僕はあまりスピードを出さなくなった。特に田舎道、山道はのんびりと走るようにしている。
その方が風景も楽しめるというものだ。

先日、伏見仙境までドライブをした。鬱蒼とした林道を走っている時、前方の路面に、大きな黒い塊がこびり付き、その上部が陽炎の様に揺らめいているのを見つけた。「何だろう」と訝り、ブレーキをかけ、徐行しながら接近して行くと、その黒い塊は一斉に分解し、空気中に舞い上がったのだ。

夥しい数のカラスアゲハの群れだった。車がアゲハの群れに囲まれ、視界が暗くなった。千匹以上はいたはずである。その内の数匹が、フロントガラスに停まった。黒い羽根の表面には、空の青さを映し込んだような、鮮やかなブルーのラインが走っていた。

予期せず出遭った美しい光景に僕は陶然となった。やがて雲散霧消するかのようにアゲハ達が去った後には、木漏れ日を受けて森の奥まで続く細い林道と、しんとした森の静けさ、そして青空だけが残った。



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<エッセイ> 冬の朝

未明から階下で音が聞こえていた。外で車のエンジンをかける音がし、また家に入ってきてバタバタと歩く音。
起きて行くと長男がキッチンでゆず茶を作りポットに入れていた。会社の先輩と、雌阿寒岳の登山に行くという。
コーヒー豆をミルで砕きながら、リュック詰めしている息子に時々訊いてみた。

「アイゼンやピッケルは持ったのか?」

「うん」

「その先輩、冬山は何度も経験してるのか?」 

「うん。ベテランだよ」

「そうか…。雪崩や滑落、それと火口近くの毒ガスに気を付けろよ」

「うん」
 
父子の短い会話である。

「コーヒー、淹れたけど…飲むか?」

「あ、ありがとう」
 
手渡したマグカップからふた口ほどすすり、「じゃあ、行ってきます」と言って玄関を出る。

「ああ、気をつけてな」

その背中に声をかけ、コーヒーを飲みながら窓の外を去って行く息子の車のテールランプを見送った。
そして思い出した。

僕が雌阿寒岳に初めて登ったのは二十四歳の時だった。大好きな山のひとつだ。
気が付くと、息子も二十四歳になっていた。

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<エッセイ>佐々木さんのこと

先日同じ町内会に住む佐々木さんが亡くなった。八十一歳で身まかるまで、町内会副会長を務め、町のゲートボール協会でも活躍した方だった。木材工場の鋸の目立てを生業としていたが、二十年以上前に退職し、今では百五十軒が立ち並ぶ町内会がまだ草原だった頃から、その一角に家を建てずっと住み続けてこられた。

何よりも佐々木さんは我家の次男坊、大河の師匠だった。小学五年の時、下校途中に老人達がゲートボールの練習しているコートの脇を通った際に、次男は立ち止まってそれを見学したのだという。そして休憩中の佐々木さんに「おじさん、ゲートボールって面白いの?」と声をかけた。

「面白いかどうか、自分でやってみろ」
 
佐々木さんのその言葉がすべてのきっかけとなった。

「パパ、僕、ゲートボールやってみたいんだけどいい?」
 
夕食時に次男が相談してきた。ボールを打つスティックと専用のシューズが必要だという。『ゲートボールだなんて…。随分と年寄り染みたものに興味を持ったな』とは思ったが、それを口に出さずに快諾した。それまで息子はテレビゲームばかりに夢中で、外で遊ぶことなど滅多になかったからだ。
 
その後息子は町内のゲートボール場に日参するようになり、土日はほぼ一日中老人達との練習に精を出した。練習ばかりではなく、ちゃっかり晩御飯までもご馳走になって帰宅する事も多かった。

「いやあ、お父さん。大河君、筋がいいですわ。物覚えもいいし、めきめき上達していますよ」
 
佐々木さんが日に焼けた顔をほころばせて報告してくれた。

「毎日お世話になって…。やんちゃな事をやったら、がっつり拳骨をはってやってくださいね」
 
感謝と共にそんな言葉を返したのを今でも覚えている。
 
ほどなくして息子は老人達と試合に出るようになり、所属するチーム『芽室弥生』はその後様々な大会で優勝するようになった。次男のワンショットがチームの危機を救い、逆転優勝する事も度々起こった。やがて息子の名前は芽室の老人達の間では知らぬ者が居ないほどになった。私が町の総合計画審議会の会議に出席すると、「塚田さん」と呼ばれる代わりに「大河君のお父さん」と声を掛けられるようにさえなった。

チームは全国大会にも出場するようになり、息子は佐々木さんと一緒に埼玉に行った。試合前、メンバー全員で横浜の中華街見物をした際に、佐々木さんが階段で転び足腰を痛めた。息子はずっと付きっ切りで佐々木さんをかばい、サポートしたのだという。
中学・高校に進学しても息子はずっと同じチームでゲートボールを続けた。

「ゲートボールばかりじゃだめだ。ちゃんと勉強も頑張れ」
 
佐々木さんの言葉を聞き、息子は練習中もコートに教科書や参考書を持参し、練習の合間はゼッケンをつけたままベンチに座って勉強をしていた。

「お父さん、あいつは二宮金次郎みたいな奴ですわ」
 
高校受験を控えた中学三年生の夏、町内会の寄り合いで日本酒に酔った佐々木さんが次男の事を笑って言った。
 
現役で北大理学部に合格した時、息子は真っ先に佐々木さんに電話をした。大喜びの佐々木さんは「めでたい、めでたい」と言って家で祝杯を挙げたのだという。
 
二年前、佐々木さんは胃癌を患い入院し、町内会の仕事も辞められた。次男も帰省する都度お見舞いに行った。成人式で芽室に帰って来た時には、自宅で療養していた師を訪ね、正座をして「今までお世話になりました。これからもよろしくお願いします」と床に手をつき感謝を伝えた。佐々木さんは随分と痩せてはいたが、自分の孫が成人したかのように喜んだ。

そんな話を娘さんが文章にしたのが、この春、北海道新聞のいずみ欄に載った。

『父には六十歳も年が離れた親友がいます…』と始まる文面に、親としても感動し、息子を誇りに思ったのだった。先月、次男はゲートボールの北海道代表チームの一員として、国体に出場する事になった。国体選手になったことはすぐに佐々木さんにも伝わった。

「容態が思わしくなく、今夜から病室に母と泊まる予定です。父が寝言の様に大河、大河って叫んでるの…」
 
娘さんから連絡が入り、妻と病院へ向かった。鼻にチューブを入れられ、意識も朦朧としている様子だった。すぐに息子に連絡をした。試験の最中ではあったが、その日の夕方の特急で帰って来た息子を駅まで迎えに行き、そのまま病室を見舞った。

「お父さん、大河君、来てくれたわよ」
 
娘さんの言葉で佐々木さんは目を覚まし、力のない腹筋を使って起き上がろうとする。ベッドを少し上げてもらい、佐々木さんは眩しそうに次男を見つめた。
 
次男は専用バッグの中からゲートボールのスティックを取り出し、それを佐々木さんに手渡した。グリップの部分を握ったが、力が無くて持ち上げることはできない。息子に片方の手を握られながら、佐々木さんはじーっと病室の壁を見つめた。そして切れ切れの吐息のような言葉でこう言ったのだ。

「俺、自転車…大河…走ってる…」
 
最初は何を言っているのか判らなかったが、娘さんが思い出したように説明してくれた。

「ああ、お父さん、あのおんぼろ自転車に乗っていて、その横をいつもゲートボールのスティックを持った大河君が走ってついて行ってたものね」
 
二人の何気ない日常の風景が映像の様にまな裏に浮かび、ぐっと込み上げてくるものがあった。

翌朝息子は再び病室を見舞い、札幌へ帰った。二日後、佐々木さんは静かに息を引き取った。息子はゲートボールの全国選手権に出場中で通夜も葬儀も出席できなかったが、祭壇には様々なお供え物と一緒に『佐々木さんが好きだから』と息子がいつもお見舞いに持って行った、三ツ矢サイダーの缶がひっそりと置かれていた。


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<短編小説>ストラウドの落書き

まさに天から緑が滴っている。

鬱蒼とした森が延々と続き、その中を縫うように田舎道が伸びている。道路両側の巨木たちは、冷ややかな湿気を帯びて空いっぱいに枝葉を広げているから、路面はいつも日陰になり露に濡れている。そんな緑のトンネルの中を車はゆっくりと進む。特にしだれ柳の巨木が続く個所では、空から垂れた緑の枝が車の屋根をこするのではないかとさえ感じる。

なだらかな丘陵地帯に20キロほど続くこの道路を下ったところに小さな町がある。ストラウドという名の古い街だ。
松平博之は胸が高鳴ってくるのを感じていた。32年ぶりに身を置くこのイギリス南西部の景色は、心の借景としていつもずっと瞼の裏に在り続けた。 

亡き父から引き継いだ農業機械の輸入販売会社の仕事で、イギリスには少なくとも20回は訪れていた。しかしほとんどの場合、ヒースロー空港を起点に、レンタカーで高速道路をひた走る旅であった。環状高速道路『M4』を走る際、幾度となくこのストラウドへ降りるジャンクションを目にしてはいたが、決してそこで降りることをせず、取引先が待つ、より遠方の町へ向かう出張ばかりだった。観光などほとんどしたことはない。機械メーカーを訪ね、商談をし、また次の取引先を訪ねるために高速道路に乗る。旅程はいつも過密だった。しかしいつもそのジャンクションを通過する都度、心の深いところにキュンとした痛みがよぎるのを感じていたのだった。

23歳の時に、父がまだ53歳という若さで急逝し、いきなり会社の後を継ぐ形になった。営業の舵取り、輸入業務、そして経営まで、多くの責任が若かった博之の肩に重くのしかかった。それでも父の親友で、会社の専務だった片瀬雄三の親身な協力があったからこそ、ここまでやって来られたのである。片瀬は博之が28歳で結婚した次の年に会社を定年退職し、その後も折に触れて博之に様々な助言をくれた。為替相場の乱高下、日本国内の景気や政府の農業政策などにより、会社の業績は浮き沈みもあったが、こうしてそれを切り抜けて来られたのは、従業員達の勤勉さと、会社への忠誠心に大いに助けられたのも事実である。

博之は45歳の時に妻の幸恵を乳がんで亡くした。会社を切り盛りする夫を陰でしっかりと支えてくれた幸恵は、良妻賢母という言葉がぴったりの妻だった。乳癌が見つかった時にはすでに手遅れだったが、博之はできり限りの事をした。乳癌治療で有名な東京の病院へ転院させ、自らも仕事を休んで上京し、妻につきっきりの看病をした。治療の甲斐なく妻が逝った後、博之はひどく落ち込み、しばらくは鬱っぽくなったりもしたが、なんとか半年ほどで元気を取り戻した。

幸恵が入院する前には反抗期真っ盛りだった息子の俊介も、妻が逝った当初は毎朝目を腫らして起きてきていた。黙ったまま朝食を済ませ、何も言わずに玄関を出て登校する日々だったが、ある日を境に自ら率先して家事をこなし、それまではゲームばかりだったのが、急に家でも勉強するようになった。特に父子で話し合ったわけではない。何に触発されたのかさえ知る由もなかったが、急にしっかりしてきた息子を博之は眩しい思いで見つめていた。学校の成績も担任の教諭が目を見張るほど急速に伸び、他の同級生の様に塾に通う事もなく、現役で北海道大学に進学できた。

そんな息子を、博之は夏休み、冬休みなどに時間を見て欧州の出張に連れて行った。自ら英会話の勉強をしたいと言い出した息子に、博之は札幌市内でマンツーマンの指導してくれるネイティヴの講師をつけ、できる限りのサポートをしたのであった。

俊介も25歳になった。会社の営業主任としてバリバリ働いてくれており、2年ほど交際した恋人と、来月結納を交わす事になっている。そして知らぬ間に、博之自身は、亡くなった父の年齢を超えていた。

55歳になった自分が、今こうしてストラウドの町へ向かっているのには理由があった。どうしても自分の中で確認しておきたいことがあったのだ。

32年前、博之は確かにこの緑したたる田舎道を、ひとりパックパックを担いで歩いていた。北大を卒業した際、父に特別に頼み込み、1年間のヨーロッパ旅行をさせてもらった。できるだけ早く息子に会社を継がせたいと望んでいた父だったが、若いうちに外国を経験するのも良いだろうと快諾してくれた。

その日、丘陵地帯の起点にあたる温泉街のバースで電車を降りた博之は、一人でその緑の回廊を歩いてストラウドの町を目指した。二十数キロならば、一日あれば余裕で歩いて行ける距離だったのだが、ロンドンで購入したトレッキングシューズが悪かった。だんだんと両足のかかとが靴擦れを起こし、なんとか絆創膏を貼ったり、ハンカチを当てたりしながら凌いでいたが、15キロほどの地点で、路肩の草むらに座り込んでしまった。

延々と続く巨木の枝のトンネルの中で途方に暮れていると、一台の黒いピックアップトラックが遠くから現れ、博之の前に停まった。ボディー全体が錆だらけの古い車だが、エンジンの音には元気があった。運転席の窓が開き、若い女性が博之を見た。

「どうしたの? 歩けないの?」
 
年齢は23歳の自分と同じか、少し若いか。ブロンドの髪をポニーテールにし、その目は青く涼しげで、なかなかの美人だった。

助手席に博之を乗せ、その女性は車を発進させた。

「中国人?」

「いえ、日本人です。名前は…ヒロです」

こうして博之はエンマ・ウィルキンソンと出会ったのである。

日本人と会うのは初めてだというエンマは嬉しそうだった。道すがら会話が弾んだ。彼女はブリストルの短期大学を出て、町の中心から五分ほどの丘の上の農場、ドーソン・ファームで働く農業実習生だと話した。近郊の町、ダーズリーで買い物があり、戻る途中だったという。

ホテルを予約しているのか聞かれ、「していない」と応えると、エンマはしばらく考えた後、「安くて清潔なホテルがあるわ」と言い、街なかの古い建物の前で車を停めた。そして彼女自らそのホテルのフロントで手続きをし、博之の部屋を確保してくれたのだった。

「エンマ、どうも有難う。助かったよ」

車から降りた博之は彼女に握手を求めた。

「とにかくその靴擦れを早く治す事ね。その角に薬局もあるわ。じゃあ、ヒロ、良い旅を」

笑顔で博之の手を握り、エンマは来た道を戻って行った。窓が開けられた車の運転席で、ブロンドのポニーテールを揺らせてハンドルを切るエンマを、博之は眩しい思いで見送った。

チェックイン後、靴擦れ対策のために、博之はホテル向かいの雑貨屋でサンダルを買い、そのままストラウドの街中で夕食を摂ろうと思って歩いたが、目ぼしいレストランも見つからず、やむなくホテルに戻った。そしてその一階のパブでフィッシュアンドチップスを注文し、地元の生ビールで喉を潤した。

一日の疲れがどっと出たのか、たった一杯のビールで体が熱くなるのを感じながら、ふとパブの壁に貼ってある広告を見た。

『農作業員急募
短期でも可 
但し住込みが条件 
三食付き 給料日額52ポンド 
ドーソン農場』

イギリスの田舎町では、ホテルのパブは宿泊客だけのものではなく、地域の人々の憩いの場ともなっている。そして往々にしてそのような求人広告や、町のニュースなどが貼ってあることが多い。博之はすぐにエンマが働いている農場だと分かったが、その夜は夕食の後シャワーを浴びて、何も考えずにベッドに倒れ込んだ。眠りに落ちてゆく脳裏に、今日出会ったエンマの笑顔がすっと浮かんで消えた。

旅の所持金が心もとなかった。朝陽が差し込むホテルのパブでサンドイッチとコーヒーで朝食をとりながら博之は悩んでいた。

『この分だとあと半年も旅を続けられない』

ヨーロッパで散財したわけではない。できるだけ節約しながら木賃宿を泊まり歩いてきた。それでもすでに所持金は日本を出発した時の三分の一に近づいていたのだ。考えが甘かったのかもしれない。日本に国際電話を入れて、父に頼る事などはしたくなかった。

「よし、決めた」

博之は一人声を発して立ち上がった。イギリスのビザの有効期間はあと二か月ある。その間ドーソン農場で働こう。幸い、農作業は大学時代のアルバイトで経験済みだ。トラクターの運転だってできる。荷造りをし、チェックアウトを済ませてタクシーを呼んでもらった。

ドーソン農場は二百年前から続く貴族の一家が経営する牧場だった。「サー(勲爵士)」の称号を持つ現在のウィリアム・ドーソン卿は、ブリストルで貿易会社も経営するこの土地の有力者であったが、もっぱら牧場の仕事は三人いる執事の内のひとり、ジェイコブ・ミラーズが切り盛りしていた。生まれてすぐにポリオに罹患し、幾分左足を引きずって歩くジェイコブは、汚れたつなぎと長靴姿でも、いつもその下には白いワイシャツを着て蝶ネクタイをしていた。

乳牛200頭と80丁歩の畑を持つ牧場には五人の従業員がいた。その宿舎は牧場の入り口付近に六棟建っており、それぞれが木造の平屋で皆同じ造りをしている。スタッフのプライベートを重んじるドーソン卿の想いが表れていた。博之はその内の一戸だけ空いていた宿舎をあてがわれた。

「ヒロと呼んでもいいかね?」

ジェイコブが尋ね、博之が快く頷いた。

「日本人を迎え入れるのは初めての事だ。今、ほかのスタッフは一番草の刈り取りに出ている。母屋で昼食の時に、君を皆に紹介しよう。それまでは牛舎の掃除をしていてくれ。そこに作業着と長靴、手袋も用意してある」
 
そう言ってジェイコブはわずかに左足を引きずりながら母屋へ帰って行った。その白い母屋は一見ゴシック建築風にも見える、二階建ての瀟洒な建物だった。

牛舎での仕事はお手の物だった。正午近くに牧草の刈り取りに出ていた一団が帰って来た。トラクターを運転していたエンマが牛舎の入り口に立つ博之を見て目を丸くした。

「ヒロ! 貴方だったの? ねえ、靴擦れは大丈夫なの?」

「やあ、エンマ。昨日は有難う。助かったよ。靴擦れはなんとか大丈夫さ」
 
そう返した博之に、エンマは四人の従業員を紹介した。皆気さくに握手をし、歓迎してくれたのだった。

そのようにしてストラウドでの博之の短い夏が始まった。朝5時と午後3時の搾乳。牛舎の掃除と餌やり。そして麦やトウモロコシ畑での農作業など、仕事は山ほどあった。夕方には心地よい疲れが訪れ、夜九時には深い眠りに落ちた。

どの従業員宿舎もそのリビングルームの壁にレンガ造りの頑丈な暖炉がしつらえてあり、寒い時にいつでも火を焚けるよう、そばに薪も積んであった。よく見ると暖炉のレンガには、ナイフか何かで削りつけたような多くの落書きがあり、その殆どが人の名前だった。中にはドイツ語やフランス語で書かれた何かしらの文言も刻まれている。今までこの宿舎に寝泊まりした若者たちが残して行ったものだろう。
 
エンマは博之の宿舎の隣に寝泊まりしており、時々夜になると遊びに来ていた。ストラウドの町でお菓子を買って来たからと言って持って来たり、時にはウィスキーのボトルを携えて訪ねて来たりした。毎回、二歳年下のエンマは日本についてあれこれ聞いてくる。博之も彼女の旺盛な好奇心を満たそうと、難しくて英単語が出てこない時には紙に絵を書いたりしながら日本の文化を説明した。

「私、ジャパンに行ってみたいなあ」
 
そう言ってエンマは遠くを見つめるような眼をした。21歳にしては随分と少女っぽい表情だった。美しさと可愛らしさを併せ持つエンマに、博之は自然と惹かれて行った。
 
23歳と21歳。国籍が違うとはいえ、若い男女が限られた環境の中で仕事も食事も共にしていると、おのずと芽生えてくるものがある。エンマは自分の休みのシフトも、ジェイコブに頼んで博之と一緒の日に合わせた。

忘れられない7月1日はちょうど二人の休みの日であり、それはエンマの誕生日でもあった。
22歳になった彼女に何かお祝いをしてあげたいと考えていた博之は、その朝ジェイコブに願い出て農場の車を一台借りることにした。

「ブリストルまで足を伸ばしたらどうかね。あの町まで行けば、エンマにプレゼントしたい物も見つかるだろう」
 
笑顔でウィンクしながらジェイコブは車の鍵を博之に渡した。それはエンマと最初に出会った時に、彼女が運転していた錆だらけの黒いピックアップトラックの鍵だった。
 
大きなエンジン音や、錆だらけのボディーなど一切気にならなかった。国際免許証をバックパックの奥から取り出し、それを財布に入れて、博之はエンマを乗せ農場を後にした。
 
あの緑のトンネルを抜け、高速道M4に乗り、そのまま西進。エアコンの無い車内では開けた窓から風が直接入り込んでくる。その風にエンマのブロンドヘアーが波打った。エンマも心底嬉しそうだった。
 
一時間半ほどでブリストルに着き、二人は早めのランチをと、ステーキ屋に入った。

「ちょっと贅沢じゃないかしら」
 
珍しくスカートをはき、真っ白なワンピース姿のエンマがテーブルの向いでかしこまった。

「構わないさ。君の誕生日なのだから」
 
博之は笑顔で彼女の目を見つめた。
青く深い目。博之は彼女のその目が大好きだった。エンマもこちらを静かに見つめている。それまで続けて来た旅の中で、今自分は一番満たされた瞬間に居ることを博之は感じていた。

食事のあと、二人はストラウドの商店街を歩き回り、一軒のアクセサリーショップで博之はひとつのルビーのネックレスを買った。
1センチほどの大きさの深紅のルビーがハートの形に加工されたもので、それにプラチナの金具と細いチェーンが付いた物だった。
 
一週間分の農場での給料が飛んでしまうほどの価格ではあったが、博之は迷う事はなかった。

「こんな高価なもの…。本当にいいの?」
 
エンマが何度も尋ねた。

「誕生日おめでとう! エンマ」
 
そう言って博之は彼女の首にそれを付けた。
白いワンピースにルビーは実に綺麗に映えた。エンマは博之の首に手を回し、その柔らかな唇で博之の頬にキスをした。
 
買い物の後、二人は港までドライブをした。
イギリス屈指の貿易港であるその海岸からは、多くの大型貨物船が行き来しているのが見える。波止場に車を停め、二人は無言で貨物船を見つめていた。

「ねえ、ヒロ。船でジャパンまでどのくらいかかるのかしら」
 
しばらくしてエンマが尋ねた。

「父の話だと、1か月半から2か月らしい。ここから大西洋を南下して、地中海に入り、スエズ運河を抜けてインド洋に出るんだ。その後、インドの港やシンガポールに寄港して、太平洋を北上して日本にやってくる」
 
博之の話を聞きながら、エンマはまたしても夢見る少女のような顔になった。

「私、いつかイギリスを出て、ヒロの居るジャパンに行ってみたいな…」
 
博之はじっとエンマの目を見つめた。
 
エンマも博之に身を寄せ静かに博之を見つめた。博之がさらに彼女の身体を引き寄せると、その腕が博之の首に巻き付いてきて、青く美しい目がそっと閉じられた。甘くて熱い口づけだった。

その夜、ブリストルで買って来たワインとウィスキーの酔いも手伝い、二人は博之の宿舎の暖炉の傍で男女の関係になった。
夏とはいえ肌寒い夜が訪れていた。博之は二人を包んでいた毛布から出て、暖炉に薪を入れ火をつけた。オレンジ色の炎の明かりを受けながら、毛布にくるまったエンマが微笑んでいた。

「あ、そうだ」
 
博之は立ち上がってナイフを取り出し、エンマの横に座った。そして暖炉のレンガに何かを刻み始めたのである。

「何をしているの?」

「相合傘だよ」

「アイアイガサ?」

「日本では恋人同士をこんな絵文字で表現したりするんだ」
 
出来上がった相合傘の左にはカタカナで「エンマ」、右側には漢字で「博之」と刻まれている。
その下に博之は、1st July 1984 と日付を刻んだ。エンマとの記念日として。

その後エンマは毎晩のように博之の宿舎に来て泊まり、狭いベッドの上で二人は愛を交わし合った。そして皆が起き始める午前五時前に静かに自分の宿舎に戻って行ったのだ。
 
七月の末、ストラウドの町にエンマと買い物に出た際、博之は日本の実家に電話をしてみた。近況を報告するためである。
そしてそこで初めて父が脳溢血で倒れ、ここ一週間ほど昏睡状態である事を知ったのである。
 
緊急に帰国しなければならなかった。
 
ジェイコブに理由を話し、航空券の手配をしてもらった。エンマは最初青ざめ、そして悲しそうな表情も見せたが、「早く家族の元へ帰ってあげて」と言い、博之の荷造りを黙って手伝った。その日の夕方、博之はジェイコブと他のスタッフに別れを告げ、ドーソン農場を後にした。鉄道駅のあるバースまでは、エンマがトラックを運転した。車中、彼女はほとんど口を開かなかった。
 
バース駅前のロータリーの脇に車を停め、博之とエンマは最後の言葉を交わした。

「必ず戻ってくるから」

「ヒロ…貴方を愛してるわ。でも無理はしないでね。手紙をちょうだい」

二人は抱き合い、長い口づけを交わした。

  ****

32年ぶりにストラウドに向かうきっかけは1か月ほど前になる。ここから100キロほど北にある農場で、取引先の新製品の機械が動いているのを見学しに行った時だった。そこに居合わせた機械のオペレーターが、偶然ドーソン農場で一緒に汗を流した仲間の一人だったのだ。

「エンマはヒロが帰国して三か月ほどで農場を辞めたよ。子供ができたらしいがどこに引っ越したのかは聞いていない。なにしろ30年以上前の事だからなあ…」
 
博之は彼の言葉にしばらく我を失った。

『子供? 結婚したのか? それとも…』
 
胸を去来するものがあった。帰国してから数日で父が逝き、その葬儀を終えて、四十九日が過ぎた頃に博之はドーソン農場のエンマ宛に手紙を書いた。しかし返事は来なかった。その後何通も手紙を出したが、エンマからの便りは来ることはなかった。

父が他界したことに伴う、会社の様々な手続きと慣れない業務に追われる日々の中で、やがてエンマの影は、博之の中で希薄化していった。時々思い出すことはあったが、手紙を出しても返事は来ないだろうし、連絡の取りようもない。やがてエンマは博之にとって、若かりし頃の一時期の恋愛の相手という、思い出の対象に変わって行った。だからこそ、出張でイギリスに来ても、ストラウドへ向かうジャンクションで降りることをせずに、そのまま年月が経過したのである。

ドーソン農場の同僚と偶然に再会して小耳に挟んだエンマの消息は、文字通り博之にとって青天の霹靂であった。自分が農場を去ってから3か月してエンマも職を離れ、子供ができたという事に、どこかでそれまで見えなかった因縁が結びついているのではないかという、そんな漠然とした予感が自分の心の奥深くに着床したのである。

ここ1か月、博之は気が気ではなかった。とにかく一度ドーソン農場を訪ねなければならない。そこで何とかしてエンマの消息を知りたいという衝迫が常につきまとった。仕事とは関係のないイギリス渡航の航空券が届いたときに、博之は息子の俊介を社長室に呼んだ。

「ひょっとしたら、イギリスからお前に、とんでもない連絡をするかもしれん」
 
息子は目を丸くして尋ねた。

「いったい何? お父さん。命にかかわるような事?」

「いや、そうではないが。まあ、詳しい事が判ったら電話をするよ」

「嫌だなあ。心配だけど…。うん、わかった。じゃあ、連絡を待っているよ」
 
翌日博之は千歳空港を出発したのだった。

32年ぶりに再訪したドーソン農場は既に廃業し、従業員宿舎はまるで廃墟の様になっていた。母屋は昔の姿で建ってはいたが、人が住んでいるのかどうかもわからない。
 
博之は自分が住んでいた宿舎に入ってみた。壁も一部崩れ、蜘蛛の巣だらけの家屋の中に、あの当時の頑丈なレンガ造りの暖炉だけは煤に汚れながらもそこにあった。薄暗い中で、持ってきた懐中電灯をつけ、博之はあの相合傘を探した。
 
それは確かにそこにあった。もうかなり汚れて目立たなくなってはいたが、確かに自分が刻んだ相合傘だった。そして博之はその下に刻まれている比較的新しいメッセージを見つけ、戦慄が走った。

―Hiro, I still love you. Ask Jacob. Emma & George, your son―

『ヒロ、ずっと貴方を愛しています。ジェイコブに訊いてください。エンマ&貴方の息子ジョージより』
 
やはり別れた時、エンマは博之の子供を宿していたのである。
日付は2004年7月1日と刻まれている。

あの日からちょうど20年後に、エンマは子供を連れてこの場所に来ていたのだ。がくりと膝を落とし、金縛りにあったかのように博之はその刻まれた文字を見つめていた。
 
母屋の方から人の足音が近づいてきた。
見るとわずかに左足を引きずって歩く老人だった。腰も少し曲がり、顔は皺だらけではあったが、真っ白なシャツと蝶ネクタイの姿を見て博之は思わず声を上げた。

「ジェイコブ!」

「やはりヒロかね? よく来てくれたなあ」
 
老執事が静かな声で言い、微笑んだ。
 
牛乳の価格が徐々に下がり、農場の経営はひっ迫し続けていたが、とうとう15年前に200年続いた農場も廃業になった。
今は母屋で床に伏したドーソン卿をジェイコブが一人で看病しているという。
 
数分の会話が途切れた時、ジェイコブがおもむろに言った。

「エンマはただひたすらに君に迷惑を掛けたくなかったのだ。わかるだろう? あの後は誰とも結婚せず、息子のジョージと二人で暮らしているよ。君からの手紙は確かにここに届いてはいたが、エンマから絶対にこちらから手紙を出さないように言われていたのだ。どうか解ってくれ」

そして彼はポケットの中から一枚の紙を取り出し博之に手渡した。そこには今ブリストルに住んでいるというエンマの電話番号が書かれてあった。

「もしヒロがここを訪ねて来たら、この電話番号を渡してくれと頼まれていた。電話をしてあげてくれないか?」

ジェイコブが静かに言った。

車に戻り、カバンの中のスマートホンを取り出した。博之は覚悟を決めるかのように大きく深呼吸をした。
呼び出し音が数回なり、女性が出た。

「エンマ?」

「どなた?」

「ヒロだよ」

「・・・・」

やがて電話の向こうですすり泣く声が聞こえてきた。

満月の夜だった。博之は緑のトンネルを抜け、高速道路M4を西に向けてひた走った。それはエンマの誕生日以来だった。
カーナビに打ち込んだ住所がだんだんと近づいてくる。博之は心臓の音が自分の耳に届いているのをさっきから感じていた。

カーナビが案内を止めたのは、ブリストル郊外の住宅街で、レンガ色の二階建てのアパートが立ち並ぶ一角だった。知らされた家屋番号が書かれたドアがある。博之は静かに車を降り、そのドアの前に立ってチャイムを押した。心臓が高鳴った。ガチャリと音がしてドアが開き、一人の青年が顔を出した。

「あ…あの…」
 
思わず日本語が口から出てしまい飲み込む。

「ヒロユキ?」
 
青年の方から声をかけてきた。

「イエス。君は…、ジョージかい?」
 
声が震える。
 
その直後だった。

「ウェルカム・トゥー・アワ・ホーム!」

 ジョージは満面の笑顔で腕をいっぱいに広げ博之に抱き着いてきた。そしてその肩越しに、長いブロンドの髪を頭の上で結わえエンマが近づいてくるのが見えた。顔は年相応に年輪を刻んでいるが、あの青く美しい目はそのままだった。

32年ぶりに博之はエンマを固く抱きしめた。彼女の首には、ハート形のルビーをあしらったネックレスがかかっていた。鎖の部分はかなり色褪せてはいたが、それは間違いなく、あの時エンマの誕生日に博之がプレゼントした物だった。エンマのすすり泣く声が耳元で聞こえた。博之も涙が込み上げた。

「すまなかった…。エンマ…。本当にすまなかった…」
 
博之は声を張り上げて詫びた。

話は深夜まで及んだ。
ドーソン農場で仕事をしている時にエンマは生理が来ていないことに気が付いた。ストラウドの病院で妊娠を知り、ジェイコブにだけ事情を話して農場を後にした。しばらくは隣町の親の元で暮らしていたが、妊娠を責め、堕胎を迫る父に我慢ができずに家を出た。その後は友人の家に居候し、臨時の仕事で何とか食いつないだ。ジョージを出産したあとは、近郊の農業高校で講師の職を得た。母子だけでずっと暮らして来た。そして彼女は45歳になった時に高校の校長となった。去年早期退職し、今は牛の飼育に関する本を執筆しているという。10年前に父を、そして5年前に母を見送ったという。

息子のジョージはブリストル大学の経済学部を出て、港にあった貿易会社に就職した。しばらくは順調にやって来たが、折からの不況で会社でも人員整理があり、3か月前に職を失った。

「僕は感激しています。こうして自分の父親に会えた」
 
そう言ってジョージが微笑んだ。

「笑顔があなたにそっくりでしょう?」
 
エンマがジョージを指さして言った。

博之はまた胸に熱いものが込み上げてくるのを感じた。

翌朝、エンマが作った朝食を食べている時に、博之の携帯が鳴った。日本の息子、俊介からだった。「失礼…」とエンマ親子に目で合図をし、電話を耳に当てたまま博之はベランダに出た。
 
通話は15分ほどに及んだ。

ベランダから戻り、再び朝食のテーブルについた博之は、静かに話を切り出した。

「エンマ、ジョージ…。息子が君たちに会いたがっているのだが…。日本に来てくれないか?」

「え?」

母と子が一緒に声を上げた。

「新しい家族、そして兄に逢いたいと、息子が言っているんだが」

「ジャパンに? 私たち、行ってもいいの?」
 
エンマの顔が、遠いあの頃に見せた幼い少女のような顔になった。

【完】

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<短編小説> セイ子先生の蕎麦がき

鈴木セイ子先生は四十歳とは思えないほど綺麗で若く見える女性だった。

旦那さんも子供もおらず、学校の脇の教員宿舎で一人暮らしをしていた。東京から来たというだけで、僕はそれ以外の事は知らなかった。
 
美沢小学校三年五組。山ふところの古い木造校舎の二階に僕の教室はあった。セイ子先生はその春から僕のクラスの担任になった。

最初の頃、父や出面のおばさん達が、農作業の休憩時間にセイ子先生の事を小さな声で話していた。

「吉永小百合に似てるぞな」
「後家さんかな」
「いや、独身じゃないのかい」
「四十で独身の女ってのは初めて見るな」
「東京でなんかあったんだべか」
「何でこんな北海道の山奥に来たんだべね」
 
そんな話を僕の母が遮った。
「あんた達、高志がいるんだからそんな話すんじゃないってば」
 
僕は「後家さん」なんて言葉も知らなかったし、どうして大人があんな風にひそひそと声を潜めてセイ子先生の話をするのかも分からないでいた。

「高志、このニシンの粕漬、セイ子先生に持って行っておやり」
初夏の夕間暮れ、日が長くなった事をいいことに、子供同士の遊びの時間も午後七時頃まで続いていた。道路の向かいに住んでいる清志ちゃんと、その妹の典子ちゃんと三人で納屋の中でかくれんぼをしていた時に、モンペと白い割烹着姿の母がやってきて、僕にニシンの粕漬を詰めたアルミの弁当箱を手渡した。母は漬物が得意だった。ハタハタの飯寿司は苦手だったけれど、ニシンの粕漬は僕の好物のひとつだった。

「俺も行く!」
清志ちゃんが言った。
「あたしも!」
一年生の典子ちゃんも従った。

僕たち三人は畑のあぜ道を通って近道をし、学校の敷地内にある教員住宅へ向かった。真っ赤な夕陽が山脈の向こうに沈みかけていた。セイ子先生の住宅に着いて僕は呼鈴を押した。粗末な板戸の向こうから「はーい」という先生の声が聞こえ、ドアが開いた。

「あら! 高志ちゃん、どうしたの?」
先生が僕の姿を見て微笑んだ。

「これ。お母さんが持って行けって」
僕はアルミの弁当箱を両手で持って差し出した。僕の斜め後ろで清志ちゃん兄妹がじっとセイ子先生を見ている。

「おやまあ、何かしら?」
そう言って先生は箱の両端にある留め金を引いて開けた。

「粕漬け。ニシンの」
僕は少し恥ずかしかったがそう応えた。

「まあ、嬉しいこと。美味しそう! どうもご馳走様。あ、ちょっと待ってて」
セイ子先生は急いでサンダルを脱いで家の中へ入って行った。
開け放たれたドアから家の中の様子が見えた。清志ちゃんも典子ちゃんも僕に近づき、一緒に玄関から先生の自宅の中をうかがった。なんだかドキドキした。茶の間でテレビがついていた。ニュース番組だった。そのテレビの上には、はっきりとは見えないが、額入りの男の人の写真がふたつ飾ってあった。ひとつは紋付の黒い着物を着た老人の写真で、黒い額縁だったが、もう一方は白の額縁で、軍服姿の若い男性の写真だった。

「高志ちゃん、お返しにお母さんにこれを持って行って」
先生が玄関に戻ってきてサンダルを履き、僕が持ってきたアルミの弁当箱を手渡した。

「春に採っておいたフキを漬けておいたの。お母さんに、どうもご馳走様って伝えてね」
「はい」

そう言ってそそくさと僕は先生の家の玄関を後にした。とてもドキドキしていたからだ。

「また明日、学校でね」
声が聞こえたので振り向くと、セイ子先生が笑いながら手を振っていた。僕たち三人も手を振りそれに応えた。

「お前の先生、美人だよな」
清志ちゃんが突然そう言ったので、僕はなんだか恥ずかしくなった。
「俺の父ちゃんも、高志の担任の先生は美人だって。吉永小百合に似てるって言ってたぞ」
「うん。言ってた」
清志ちゃんと典子ちゃんが声をそろえた。
僕はもっと恥ずかしくなった。
 
僕たちが歩いている右側の方に、いつも学校へ行く時に歩く細い砂利道がある。かなり薄暗くなって来ていたので、本当はそっちの方を歩けば良かったのだろうけれど、なぜか僕たちは帰りもあぜ道を選んだ。遠くから人の声が聞こえて来た。歌うような、叫ぶような不思議な声だ。声の主は、「テッペンカケタカホーヤレホー」と、意味不明な言葉に節をつけて歌い、そして叫びながら、鳥の翼のように腕をバタバタさせて、砂利道を学校の方へ向かって走って行く。夏だというのに綿入れの汚れたチョッキを着て、ボロのズボンと黒いゴム長靴といういで立ちだ。

「あ、庄吉だ」
清志ちゃんが言った。
 
庄吉さんの事は僕も知っていた。
美沢村に昔からいる、三十歳位の少し頭の弱い人で、いつもは色んな農家の出面さんを手伝っている。農作業が終わると、ああやって腕をバタバタさせて歌いながら帰って行くのだ。

庄吉さんは頭が少し弱いけれど、とても優しい人なのを僕は知っている。彼の家は学校の向こうの神社の脇から左に折れた所にある古い平屋建ての家だった。家族がいるのかどうか、僕は知らなかった。クラスの友達は彼の事を庄吉と呼び捨てにしたけれど、僕は庄吉さんと「さん」をつけた。なんだかそうすることが本当だと思っていたからだ。

清志ちゃん達と別れ、家に入るとテレビでニュースをやっていて、父がその前に胡坐をかいて座り、焼酎を飲んでいた。今年の夏で戦争が終わってから二十年になるとニュースのアナウンサーが言っていた。

「そうか。もう二十年になるのか」
父が独り言のように言った。
 
夏休み明けのある日、セイ子先生は変わった授業をした。戦争の時の話をしてくれたのだ。二十年前なんて、僕の生まれるずっとずっと前の事だったから、あまり興味はなかったけれど、優しい声で説明する先生の話に僕はとても引き込まれた。
戦争が終わった時、先生は二十歳だったという。男の人のほとんどが戦争に行き、多くの人が帰らぬ人となった事、毎日食べるものがなくて大変だった事、そして東京大空襲の話を聞いた時には、僕は怖くて震えてしまった。五十五人の同級生全員が、先生の話に固唾をのんで聴き入っていた。

「午後の授業では皆に食べてもらいたいものがあるの」
先生がそう言って微笑んだ。
 
昼休みが終わる頃、教室の窓から外を見ていると、教員住宅の方からエプロン姿のセイ子先生が小さな鍋を抱え、手には買い物袋を下げながらグラウンドを横切ってこちらに歩いてくるのが見えた。待っていると、教室に入って来た先生は、教卓にその鍋を置いて、袋の中からたくさんの小皿を取り出した。

「これがさっきお話しした、戦争の時に食べ物がなくて、困った挙句に先生がいつも食べていたものよ。『蕎麦がき』って言います。温かいうちに皆に食べてもらいます」

そう言って小皿にスプーンで少しずつ鍋から蕎麦がきをとりわけ、それに少しだけ醤油をかけて、先生は割り箸と一緒に皆に配った。

「さあ、みんな食べてみて」

みんな一斉にその柔らかく練られた緑っぽい食べ物を口に入れた。初めて食べるものだった。

「美味しい!」
突然教室の後ろの方から男子の声が上がった。
「ほんとだ。おいしい!」
「うまい!」
女子も男子も皆口々に声を放った。
 
初めて食べる蕎麦がきは、僕も確かに美味しいと感じた。香ばしい匂いがして、醤油の味と合っていた。
 
その時だった。セイ子先生の顔が少し歪み、その目から大きな涙がこぼれ始めた。先生は黒板の方を向き、ハンカチを取り出して顔を抑えているようだった。その肩が小刻みに震えているのが見えた。なぜ先生が泣いたのか、僕にはまったく分からなかったが、その姿はずっと忘れられないものとなった。

秋も深まった十一月の寒い朝、登校途中に教員住宅の脇の道路にパトカーが二台停まっているのを見て僕は驚いた。いったい何が起こったのか判らずに教室へ行くと、同級生たちが大騒ぎをしていた。

「セイ子先生の家に強盗が入ったんだって」
「先生、怪我をしたんだって」

僕は心臓がどきどきした。

始業のチャイムがなった時、校長先生が教室に入ってきて言った。
「鈴木セイ子先生は少しの間お休みします。その間、教頭先生が授業をします」
 
僕は先生の事が心配でたまらなかった。

三日後、学校から家に帰ると、家の茶の間にセイ子先生が来ていた。びっくりしながら「ただいま」と言うと、手前に居た母がこちらを向き、「おかえり高志。ちょっと二階に行っててくれる?」と言った。よく見ると先生は泣きはらしたような眼をしていた。そしてその左腕には包帯が巻かれていた。僕はいったい何が起こっているのか解らなかった。なぜセイ子先生が母の前で泣いていたのか。あの包帯が強盗に受けた傷なのか。そもそも母と先生はどんな関係なのか。とにかくその全ては、僕などが足を踏み入れてはいけない大人の世界の事なのだと僕は悟った。

セイ子先生の家に押し入った強盗は、あの頭の弱い庄吉さんではないかという事を言い出す人がいて、それがすぐに村中に広まった。清志ちゃんまでもが、「絶対に犯人はあの庄吉だぞ」と言った。僕はそうは思わなかった。真っ暗闇の部屋の中で襲われた先生は犯人の顔を見ていない。ましてや庄吉さんがそんなことをするはずがないと僕は思った。しかしそんな噂が広まったせいで、庄吉さんはあの平屋の家に引きこもって出てこなくなった。

一週間後に犯人が捕まった。強盗は隣町に住む土木作業員の男だった。逮捕の決め手になったのは、男が先生の部屋に落としていった自転車の鍵だった。神社の向こうの庄吉さんの家の、更に向こうの川の土手に、男が乗っていた自転車が乗り捨てられていたのだ。男はそこに自転車を停め、先生の家に静かにやって来たのだった。

先生はその後元気を回復し、いつもの綺麗で優しい女性に戻った。母とは随分とウマが合うようで、時々先生は僕の家に来て食事を共にするようになった。僕が六年生になった時、先生は美沢村を離れ、札幌に引っ越して行った。寂しかったが仕方がなかった。札幌へ向かう先生を見送るために同級生や親と集まった村のバス停では、セイ子先生も母も涙ぐんでいた。僕も涙をぐっとこらえた。バスの姿が見えた時、後ろの方から庄吉さんがいつものように走ってきた。

「テッペンカケタカホーヤレホー」

そう叫んで庄吉さんはいつものように腕をバタバタしながら走り去っていった。みんな「わははは」と笑った。そしてセイ子先生も「うふふふ」と楽しそうに笑った。

高校二年の時に、僕は例の強盗事件の詳細を母から聞いた。セイ子先生は実は強盗に遭ったのではなく、夜中に侵入してきた男に強姦されたのだった。隣町の犯人は随分前からこの山里の小学校に赴任してきた美しい女教諭に目をつけていたらしい。

戦時中、東京で小学校の教師だったセイ子先生には夫がいた。食うや食わずだった生活の中でも、二人の新婚生活は幸せだったのだという。しかしそのさなか、ご主人に召集令状が届いた。夫を戦地に見送った直後に東京大空襲が起きた。先生の家も全焼し、両親も兄弟も亡くなった。たまたま学校にいたセイ子先生だけが助かったのだそうだ。家族の葬儀を簡素に済ませ、先生は北海道に疎開してきた。戦争は終わったが、戦地に赴いた夫の生死は一切わからないまま時が過ぎた。

強姦された朝、先生は救急車で病院へ運ばれたが、翌日病室で手首を切って自殺をはかった。それをたまたま見舞いに行った僕の母が見つけて大声で医者を呼び、命を落とさずに済んだのだった。しかしそれは、先生にとってみれば、生きて帰ってくるかもしれない夫をずっと待ち続けている間に、見知らぬ男に凌辱された現実と、そんな自分を許せなかったのだろうと母が話してくれた。

あれから四十年が過ぎた。僕は帯広市内の小学校に勤務する教諭だ。大学を出た後、故郷の十勝管内で小学校の教員を続けて来た。二十五年前に結婚し、子供ももう大人になった。そして定年まであと十年を切った。

二週間前、札幌で中学校教諭をしている清志君からメールが来た。
「セイ子先生の消息がわかったぞ。地下鉄円山駅そばのケアハウスに居るらしい」
 
先週末、僕は清志君と二人でそこを訪ねた。先生は八十歳になっていた。長く真っ白な白髪を輪ゴムで結び、浴衣姿だったが、確かにあの綺麗なセイ子先生の面影は残っている。大きくて優しく澄んだ目で先生は僕たちを見た。

「先生、宮部高志です。覚えてますか?」
僕は腰をかがめ、先生の顔の前に自分の顔を近づけた。

「あらまあ! 高志ちゃん! なんてことでしょう!」
先生の顔が笑顔でパッと明るくなった。
 
昔話に花が咲いた。そして僕はどうしても聞いておきたいことがあった。
「先生。あの蕎麦がきをみんなで食べた時、どうして先生は泣いていたんですか?」

先生は目を細めて記憶をたどり、そしてこう言ったのだ。
「夫が出征する前の晩、家にはそば粉しかなかったのよ。だからそれで蕎麦がきを作ったの。悲しかったわ。でもそれを出したら、夫はいつものように、『うん。旨い!』って言ったの。あなた達もあの蕎麦がきを食べて美味しいって叫んだでしょ? あんな粗末な食べ物なのにね…。それでつい思い出しちゃったのね。夫の事を…」

今になって僕は思う。人生の中の二十年なんてごく短い時間なのだという事。そしてあの時、先生にとって二十前の戦争はまだまだ終わっていなかったのだという事を。

もうすぐまた終戦記念日がやってくる。
今朝、僕はクラスの生徒全員のアレルギー調査表を見てみた。幸い誰もそばアレルギーは居なかった。夏休み明けに、生徒に蕎麦がきを作ってあげようと、そば粉を買って来たところだ。

部屋の冷房を切って窓を開けた。
真っ青な空と蝉の声が飛び込んできた。

『完』

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<小説> 紅蓮の音 その6

八月中旬。
広子の留学期間もあと二週間を残すのみとなったある夜、二人は俊介の部屋で結ばれた。
俊介にとっても、広子にとっても初めての体験だったこともあり、最初はお互いにぎこちなかったが、二人は熱く満ち足りた思いに包まれた。

「私、先に日本に帰ったらきっと俊介さんに逢いたくて堪らなくなると思う…」
 
体を密着させ、広子が俊介の胸元で囁いた。

「それは僕も同じだよ。でもあと三か月したら僕も帰国するし、それまでは毎日のように手紙を書くよ」
 
俊介は初めて女性を愛することの喜びと切なさを知った。そしてそれは広子も同じであった。

二人はその夜、心と身体を同化させるがごとく何度も求め合った。

 広子の帰国までの毎日、俊介はリハーサルの時間以外はすべて彼女と過ごした。
寝起きを共にし、食事も買い物も一緒だった。

「セネガルの言葉で、愛する人の事を『ハビティー』って呼ぶんですって」
 
街の通りの滴るような街路樹の下にあるカフェで広子が教えてくれた。

「ハビティー?」

「ええ。ルームメイトのマリマが言っていたわ」

「いつか話してくれたパーカッションを勉強に来ている黒人の人?」

「そう。彼女セネガル出身なのよ。俊介さん、私、貴方の事を『ハビティー』って呼んでもいい?」
 
広子が楽しそうに言った。

「別に構わないけど。でも、愛する人がハビティーなら、僕も広ちゃんの事ハビティーって呼んでもいいんじゃないか?」
 
俊介がそう返すと、広子は目を丸くした。

「うふふ。面白い! そうしよっか?」
 
その後、広子をプラハ国際空港で見送るまで、二人はお互いをハビティーと呼び合った。そしてその心地よい響きの呼び名は、しっとりと二人に馴染んでしまった。
 
見送る朝、空港のベンチで搭乗券とパスポートを手にした広子が、そっと俊介の手を握った。俊介もその手を力を込めて握り返す。 

「ハビティー…離れたくない…」

「僕もだよ。ハビティー」

「ハビティーが帰国したら、真っ先に逢いに来てくれる?」
 
広子が懇願するかのような表情で俊介を見上げた。目に涙が滲んでいる。

「うん。成田から真っ先に逢いに行く」
 
俊介がその目を見つめて静かに返事をした。

「愛してる…ハビティー、愛してるわ」
 
広子が涙声でそう言いながら頭を俊介の肩に持たせかけて来た。
その頭をしずかに持ち上げ、俊介は愛おしいその女性の唇にキスをした。
長い口づけだった。広子の目から冷たいものが俊介の唇に伝わり落ちて来た。
 
搭乗の最終案内が流れ、広子も俊介も立ち上がった。

「じゃあ、三か月後に」
 
俊介が震える声を静かに放った。

「うん…。三か月後に」
 
広子も静かに頷いた。
 
ゲートに向かう広子は何度も振り返り手を振った。俊介もそれに応えた。
そしてやがてその姿は見えなくなった。

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<小説> 紅蓮の音 その5

リハーサルのスケジュールの合間を縫って、俊介は広子とデートを重ねた。

カレル橋たもとのモルダウ川を眺めるカフェがいつもの待ち合わせ場所になった。石畳の旧市街を散策したり、プラハ城まで足を延ばし、一緒に夕なずむ街の全景を眺めたりもした。そして夕方にはそれぞれの食材を買いに一緒に市場に立ち寄り、あれこれと品定めをする。広子も心底楽しそうだった。そして楽しそうな広子を見て、俊介は満たされた。

音楽一筋で生きて来た俊介にとって、それは紛れもない初めての恋であった。そして、翌日からロンドン公演のためにプラハを留守にすることになっていた日の夕暮れ、アカデミーの女子寮まで広子を送った際、その玄関先で俊介は思い切って広子に告白した。

「広ちゃん。僕は君が好きだ」

一瞬恥ずかしそうに俯いた広子だったが、すぐに俊介の目を見つめ、静かに応えた。

「俊介さん、ありがとう。私も貴方が大好き…」

思わずその手を引き寄せ、俊介は広子を抱きしめた。小柄なその身体をすっぽりと包み込むと、俊介のちょうど鎖骨あたりに広子の頭が密着した。

「来週の土曜日には帰ってくるから…」

「うん。待ってる…。頑張ってきてね…」
 
胸元で広子の柔らかな声が聞こえた。

ロンドンのロイヤルフェスティバルホールでの三日間の公演は、どの日も満員となり大成功に終わった。管弦楽団の団員たちともすっかり打ち解けた俊介は、皆から「シュン」とニックネームで呼ばれ、最終日、とあるパブで催された打ち上げパーティーでは、ビールの酔いも手伝い、バイオリンを取り出して皆の前で日本のポップスのメロディーなども披露し喝采を浴びた。

プラハの空港からヒースローに降り立ち、ロンドン市内に入るバスの窓から、俊介は至る所で今猩々の花を見かけた。何気ない公園の外縁、バス停そばの花壇や、道路の中央分離帯などに、その深紅の花々は植えられていた。初夏に盛りを迎える今猩々は、ぐずついたロンドンの空の下でも一段と際立って見えた。その男女の熱い情熱を表しているという花の在りようは、まさに俊介の広子に対する恋心を代弁しているかのようでもあった。いや、今猩々の花こそが俊介にとって広子の存在にすら見えた。

『明日にはプラハへ戻って、再び広子に逢える』

今まで音楽の周りだけを漂って来た俊介の宇宙の中に、広子は強力な重力と輝きを放つひとつの星として現れたのだった。


****


蝉しぐれが途切れない暑い日の午後、俊介の母、田辺千鶴子は二十五年ぶりに県境の町の郊外にある墓地を訪れた。

今は亡き父に勘当を言い渡されて家を出てから、すでに四半世紀が過ぎていた。
その間、一人娘でありながらも、千鶴子は父母はもとより、親族とも一切連絡を絶った。自分を勘当した翌年、父は脳溢血で逝き、その翌年に後を追うように母も急性心不全でこの世を去った。両親が他界した事は母が逝った年の暮れに、所属していたオーケストラの演奏を見に来た親族の一人が、楽屋を訪ね知らせてくれた。それはコンサートの間、託児係に預けていた乳飲み子の俊介を引き取り、楽屋の隅で母乳を与えていた時だった。

「こんなに元気な赤ちゃんができて。お父さんお母さんが見たらどんなに喜んだことかしらねえ」

母方の伯母にあたるその女性の声が涙で上ずっていた。千鶴子は涙がこみ上げるのを必死で堪えながら、自分の乳房を無心に吸う俊介の顔を見下ろしていた。

千鶴子の父親、田辺市蔵は若い頃に韓国から日本に渡り、苦労を重ねた末に、この県境の町で小さな木工場を持つに至った。高度経済成長の時代のさなか、売り上げは順調に推移したが、ある大口の取引先が突然取引から手を引いたために在庫が焦げ付き、それが引き金となって業績が悪化した。裁判にも訴えたがどうにもならず、やがて父は自己破産の宣告をした。

日本人の母を嫁に取っておきながら、父の市蔵は千鶴子に「結婚するなら韓国人と」といつも言い聞かせていた。勘当の理由は千鶴子がそれに反したからでもあったが、ほかにも理由があった。

二十五年ぶりに父母の墓前で手を合わせ、千鶴子は心の中で祈った。

『お父さん、お母さん、長い間お参りにも来なかった私の親不孝をどうかお許しください。私も俊介も元気で暮らしています。今日このようにお参りするのは、息子の俊介が音楽の道を立派に歩んでいる事を報告したかったからです。どうか今ヨーロッパに居る俊介を見守っていてください。そしてこの人生において、お父さんと私を引き裂く原因になった事の全てを、どうか許してください』

涙がこぼれた。両親の死を知らされた時には感じ得なかった深い喪失感が千鶴子の胸を突いた。
随分と長い時間墓前に佇んでいた千鶴子だったが、やがて腰を上げ墓地を離れた。そして墓地の前のバス停の横にあったポストに、千鶴子は一通の封書を投函した。

高く青い空に、真っ白な入道雲が眩しかった。
目を閉じて顔をやや上に向けると、顔全体に太陽の熱を感じた。すがすがしい気持ちがした。

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<小説> 紅蓮の音 その4

「卒業課題は今後半年間の演奏ツアーをこなす事だ。もちろん特別にギャラも出す。我々のオーケストラはどこの国へ行こうとも必ず最初にスメタナの『わが祖国』を演奏する。そしてそれぞれの演奏会において違う作曲家の作品を演奏するが、その為のリハーサルもびっしりと組まれている。シュンスケ・タナベ、君はついて来ることができるかね?」 

ボロビックはじっと俊介の目を見つめた。

「最善を尽くします」
 
俊介の声は静かだったが、深い自信に満ちたものだった。

首席バイオリン奏者のボロビックの隣で、聴衆を前に演奏できる事の至福。リハーサルを通して知り合った錚々たる名演奏家たちとの一丸となった演奏。そして何よりも、世界的な指揮者として名を馳せているウラジミール・アシュケナージのタクトの前に今自分が存在する事の痺れるような興奮。二十四歳にして俊介は、この上ない充実感と人生の輝きを、惜しみなく天から与えられているような感覚を味わいながら毎日を過ごしたのだった。

*****

初夏の週末、俊介はとある催し物に招待された。在籍しているプラハ音楽院と、もうひとつチェコにおいて音楽教育では双璧を成す、プラハ音楽アカデミーに在籍する留学生が集まるパーティーだった。同じ音楽を志す若者同士の交流を促進しようと、プラハ市の教育局が催したそのイベントには、実に多くの国籍の留学生が集った。

国費留学生、私費で来ている学生、そして三か月ほどの期間だけ学びに来た短期留学生を含め、その数は優に三百人を超えていた。日本から来ている学生も二十名ほどいて、俊介は宴会のさなか、その日本の学生グループの輪の中に入り会話を楽しんだ。

出身地も様々な日本の学生たちの中で、ひとり俊介の目を引く女性がいた。賑やかに会話を楽しむ男女の中にあって、その女性はどこか控えめであまり言葉を発せず、ビュッフェテーブルから取って来た料理を上品な所作で口に運び、他のメンバーが話に盛り上がるのを優しい笑顔で見つめている。

美しい顔立ちをしていた。
鎖骨あたりまで伸びた黒くしなやかな髪と、少しだけ奥まった大きな目と深い色の瞳。そしてすっきりと通った鼻筋の下には、上品で可愛らしいピンクの唇があった。他の女性のようにしっかりと化粧を施していない顔でありながらも、彼女の美しさは際立っていた。身長は150センチ程であろうか、小柄ですっきりと引き締まった身体つきをしているのが、ワンピースの外側からでも見て取れた。

女性は上村広子と名乗った。そして驚いたことに彼女は俊介と同じ県の出身であり、なんとその実家は俊介の母が暮らす町のすぐ隣の市であるという。現在は東京の私立音大の二年生で、声楽を専攻しており、ソプラノの勉強のため三か月間だけ音楽アカデミーに私費で留学していると話してくれたのだった。

異国で暮らす者にとって同郷出身者を見つけた時の喜びは、経験したものでなければ分からない。俊介は広子に対し、急に懐かしさに似た親近感を抱く自分に戸惑いもせず、「少し座って話しませんか?」と会場の中庭に誘い出した。

会場になったレストラン、『ウ・フレクー』はその料理の美味しさと安さ、そして時々そのホールにおいて小さなコンサートも行われる事で知られており、俊介も数回来たことがあった。その静かな中庭には、中央に円形の大きな花壇とそれを囲むようにベンチがしつらえられている。俊介と広子はそこに腰かけ、お互いの事を尋ね、話しあった。

俊介の話を、広子は目を細めてじっと聞き入り、時折その大きな目をひときわ大きくさせて驚き、時には可愛いらしい声を発してコロコロと笑った。俊介の実家の隣町から来た広子は、県内でも有名な上村建設の社長を父に持つ事。高校時代にそれまで必死に続けて来たピアノに挫折し、声楽に切り替えた事。プラハにきて一か月が過ぎ、やっと日々のレッスンにもついて行けるようになったことなどを話した。

話が少し途切れた時に、広子がじっと中庭中央の花壇を見つめて、独り言のように言った。

「あの花…、今猩々じゃないかしら…」

「え? イマショウジョウ…ですか?」
 
そう聞き直しながら俊介も花壇に目をやった。

「ええ。あの花壇を囲んでいる花…」
 
広子はベンチから静かに立ち上がり、花壇の方へ歩み寄って行く。俊介も立ち上がって従った。

「やっぱり。今猩々だわ!」
 
花壇の外縁をなぞるようにして植えられている燃えるように赤い花に顔を近づけ、広子は目を閉じてそのにおいを嗅いだ。

「これ、私の家の庭にも沢山咲いているの。ツツジの中でも一番赤い色が鮮やかなんです。男女の燃えるような恋愛を表現している花とも言われていて…。ヨーロッパにもあったんですね! 今猩々…」

嬉しそうに話す広子の柔らかな声。そしてその清楚でありながらも気品を漂わせる美しい横顔を見つめ、俊介はかつて経験したことがなかった不思議な熱い感覚が、自分の胸の奥にこみ上げてくるのを感じていた。




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<小説> 紅蓮の音 その3

ヨーロッパの風景と空はあまりにも饒舌であった。
この一年半、俊介は音楽院が休みになると、列車やバス、時には自転車でも旅をした。バックパックを背負い、至る所のキャンプ地で寝泊まりし、雨や雪の日には格安のB&Bやユースホステルを利用しながら、チェコ周辺のみならず、ドイツ、ハンガリー、フランス、スペイン、イタリアそしてギリシャにまで足を延ばした。

歴史の深さ、民族の多様性、現代の風景に違和感なく溶け込んだ中世の古城や遺跡。地中海沿岸と北ヨーロッパの空と光の色彩の違い。そしてその風土に根差した音楽の艶めきは、日本にいては決して体感することのできないものばかりだった。

そもそも俊介が身を投じたクラシック音楽そのものが、このヨーロッパの風土が産んだ豊穣なるものとして、人々の生活にいにしえから密着している事実を俊介の五感はすぐに察知した。その気づきは音大で学んでいるだけでは決して得られないものであった。

バッハやベートーベンの音楽の故郷とも呼ばれるドイツのライプツィヒ近郊で、地平線まで広がる菜の花畑に立った時に、俊介は初めてドイツの田園風景を理解し、バッハが音楽監督を務めた聖トーマス教会の祭壇の前に立った時には、ステンドグラスの天井から何かしら啓示が降りて来たような深い優しさに、自分がすっぽりと包まれた感覚を覚えた。

とりわけ大きな気づきを得たのは、ローマのバチカンにあるシスティーナ礼拝堂で、数々のフレスコ画を見ていた時に、天井に大きく描かれたミケランジェロの絵、『アダムの創造』を見た瞬間であった。

絵の中のアダムは裸体を横たえながら、左腕を伸ばし、その人差し指は天から降りて来た創造主の方へ向いている。そして中空に浮かぶ神も自身の右腕をアダムの方へ伸ばし、その人差し指同士がまさに触れようとしている。俊介はそのわずかな指先の隙間から、世界、すなわち音楽が始まったのではないかと、不思議ではあるが妙に確信めいた観念が自分の奥深くに起こるのを禁じえなかった。それは俊介にとってひとつの宗教画ではありながら、絵画を超えた何か得体のしれない深淵なものを暗示するものとして網膜に定着した。

旅の距離と比例して俊介のバイオリン演奏は円熟味を増して行った。その表現力、千態万状の音の在り様を忠実に再現する技巧と、聴く者を陶然とさせる演奏力は指導者のボロビックを大いに唸らせた。そして卒業まで半年を残した春に、ボロビックは俊介にチェコフィルハーモニー管弦楽団の第二バイオリン奏者として、ヨーロッパ各国でのコンサートツアーに参加するよう求めたのである。


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<小説> 紅蓮の音 その2

最初のレッスンでは緊張してこちこちになっていた俊介だったが、気さくなボロビックの人柄と、俊介にも理解しやすい英語でのコーチングに緊張は徐々にほぐれていった。それよりもこの著名な楽人から受ける指導は、俊介にとってはまさに青天の霹靂であった。 

基本的な旋律のウォーミングアップを終えて、最初の課題曲として楽譜を与えられたのはサラサーテのツィゴイネルワイゼンだった。ハ短調のもの悲しく、また特別な演奏技法を要するその楽曲は、俊介にとっては既に馴染みがあり、複数回ステージで演奏した経験のあるものだったし、特に譜面を見なくとも正確に演奏できる曲だった。

ボロビックは教室の窓際の簡素なスツールに腰をかけ、腕を組んで目を閉じ、この東洋からやって来た青年の演奏にじっと聴き入っていた。そして非常に装飾音符が多く、見せ場には事欠かないその第一楽章を、俊介は難なく演奏して見せたのである。

「ブラボー」
 
ボロビックはそう声を発しゆっくりと拍手をした。そして彼は俊介の目を優しい眼差しで見つめ、こう言葉を投げかけたのである。

「今まで私が見て来たアジアから来た国費留学生の中でも、君はひときわ上手い。ミスもなく、楽譜に非常に忠実だ。音も美しい。だが…」
 
少しの沈黙が二人の間に差し込んだ。そしてそれまで優しい笑みをたたえていた彼の目が急に険しくなった。

「君はこの楽譜の中にあるクレッシェンドやデクレッシェンド、そしてスフォルツァンドなどの記号が、なぜそこにあるのか、サラサーテは何故それらをそこに配置したのかを理解していないようだ。確かに君はそれらの記号に忠実に弾いている。だがその記号の背景にあるサラサーテの意図や精神を掴んでいない」

「記号が置かれた背景…意図…ですか…?」

俊介が訊き返した。 

「ああ。君は今までロマと会ったことはあるかね?」

「ロマ…ですか?」

「ジプシーの事だよ。誰かジプシーの知り合いはいないのかい?」

「いえ、全くありません」

「そうか。知っていると思うが、これはスペインのサラサーテがロマの女性と知り合った事がきっかけで作られた曲だ。この曲のために彼はロマの集落に一定期間滞在したんだ。だからこそこのようにドラマチックな旋律ができたのさ」

「はあ…」
 
俊介はボロビックの話の意図するところをまだつかみきれないでいた。

「津軽三味線は良く知っているだろう?」

「え? あ、はい」
 
突然話題が日本の民謡楽器の事になったのに驚く間もなく、ボロビックは話しを続けた。

「例えばヨーロッパの人間が津軽三味線を気に入り、日本に渡ってその演奏の仕方を勉強したとする。そして短期間に一定の曲目を忠実に弾けるようになったとしよう」

「はい…」

「しかし日本の聴衆、ましてや津軽三味線の演奏家がそのヨーロッパ人の演奏を聴いたときに感じるのはどんな事だと思う?」

「・・・・」

「確かに上手いと思うかもしれない。しかしその演奏は、あの北日本独特の風と波と吹雪、そして寒さを音で表現しているだろうか。その自然の中で暮らしている人間の苦悩や一喜一憂を音で表現しているだろうか? 私はそうは思わないのだよ。誰でも津軽で長年暮らさないと、あの音色は出せない。いいかい、楽器を演奏するという事はただ楽譜に従って忠実に再現するのではなく、それを作曲した人間の気持ちにどれだけ近づけるかという事だ。君は確かに巧い。しかしロマやサラサーテからはほど遠い」
 
脊髄に雷が落ちたような感覚を覚えた。俊介はその時初めて留学が決まってからどこかで慢心していた自分が音を立てて瓦解していくような気がした。

「僕はどうすればよいのでしょう」

落胆した面持ちでそう尋ねた俊介を見るボロビックの目が再び優しい色を帯びた。

「ピアノを弾く者はショパンにはなれない。それと同じように、この曲を弾くバイオリ二ストもサラサーテにはなれない。しかし限りなく近づくことはできる。君は二年間の留学を許されてこのチェコに来たのだ。そして僕から受けるレッスンは週に二回きりだろう?」

「ええ」

「幸いこのチェコという国には様々な民族が住んでいる。このプラハの北西に行けばロマの居留地もある。そして気が向いたときに列車一本で、国境を接しているドイツやポーランド、スロバキア、オーストリア、そしてハンガリーにも行ける。気軽に一泊、二泊の小旅行が好きな時にできるんだよ。そうじゃないか?」

「ええ、おっしゃる通りだと思います」

「まずはこの街を拠点にしてヨーロッパじゅうの旅を始めることだ」

「旅…ですか」

「ベートーベン、バッハ、モーツアルト、誰でもいい。君の好きな作曲家が生きた町、国を訪ね歩くには、今君はもってこいの環境に居るんじゃないか? ベートーベンの『田園』をオーケストラで演奏するバイオリニストが、一度もドイツの田園風景を見たことがない、そこに吹く風の匂いも知らないでいるのは、明らかに間違っているとは思わないか?」
 
俊介は、目の前に立つ巨匠の言葉をやっとその時理解した。そしてその得心の度合いは、心地よい痺れすら伴い、これからの地平を見渡す俊介の心に定着した。

「その作曲家が愛した風景を見て、その土地の水を飲み、食べ物を食べ、そしてどうやってその作品が書かれたのかに触れるんだ。一泊二日でもいい、夏と冬の長期休講の間でもいい。とにかく、ヨーロッパと音楽の歴史を見て歩きなさい。もちろん、週に二回のレッスンはしっかりこなしてもらうがね」

そう言ってボロビックは片目を閉じて微笑んだ。

時間が来て自分の師が出て行った広い教室で、俊介は窓辺に寄って空を見上げ、静かに嘆息した。

東ヨーロッパの天蓋がオレンジ色に染まっていた。


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プロフィール

高島悠介

Author:高島悠介
男性。北海道在住。団塊世代後の生まれ。

作者名 高島悠介はペンネーム

五十路を迎え、書きたいことが募ってまいりました。ゆっくりと綴って行くつもりです。

ブログの作品にはまだ書きかけ、未完のものも有ります。あしからず。






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